どん底から救ってくれた義父の16万ドル
危機を乗り越えられたのは、義父のおかげだった。娘の結婚に大反対していた義父が、「お金に余裕ができたから、ぜひ息子のお前に使ってもらいたいんだ」と16万ドル(2400万円)の小切手を手渡してくれた。
息子と呼ばれるのも初めてだった。実は、このお金は30年間勤めて貯めた退職金を途中解約して作ったものだったと後で知る。「この人の恩に報いるために、絶対に立ち直る。そしてお金を全額必ず返すぞ」と奮起した。
この失敗をバネに、航空貨物輸送、水産ビジネスなど事業の多角化に着手、安定した財務体制を敷く。しかし、事業の多角化はここでも裏目に出る。1990年のバブル時代に「ゴルフ場+住宅街」の開発事業に手を出したのだ。
日本のビジネス仲間から億単位の資金が集まり、32万5千坪の土地を買収。土を掘り起こして芝生を植える作業も、ポートランドという土地柄雨がよく降るために一からやり直しになり、経費がかさんでいった。
運悪くバブル崩壊で出資者は次々事業から降り、残ったのは多額の負債とゴルフ場建設予定地だった。
ある深夜、思わずピストルを手に取った
ゴルフ場の敷地内にある自宅の窓から芝生に降り注ぐ雨を見ながら、自死が頭をよぎる。夜中の3時、ピストルを手に取り、こめかみに当てた。20、10、5秒とカウントダウンしていくと、浮かぶのは家族の顔。そのうち、「何で死ななあかんのか。アホなことで悩んでるんちゃうか」と我に返ったという。
資金ショート寸前のところに、大手食品メーカーのオーナー経営者がゴルフ場を買い取ってくれ、危機を脱した。
勝負のここぞという時にいつも足をすくわれた。すくったのは他でもない自分だった。そして、そのたびに人に助けられてきた、と吉田は言う。
「どん底まで落ちて上がれたのは、人が手を差し伸べてくれたからだ。見栄は高い代償がつく。ゴルフ場なんて専門外なのに調子こいてしまった。どれだけ儲かっても、見栄は張らないことに決めたんや。ベンツに乗って銀座で遊ぶ社長の話を聞くと、『ほどほどにせいよ』と思うよ」
以来、クルマはプリウス、高級スーツも高級時計も持たない。