下北沢からも三軒茶屋からも徒歩15分。不便な場所にありながら、舌の肥えた客が夜な夜な集まってくるレストラン「サーモン&トラウト」。自分の足で生産地を回って食材を探し、ここでしか食べられない料理を生み出すシェフ・森枝幹さんは、ユニークな経歴の持ち主だ。転機は、オーストラリアで訪れたという。
2015年の秋頃から、毎月何かの雑誌に大きく取り上げられている注目店がある。代沢小学校近く、茶沢通り沿いにあるレストラン「サーモン&トラウト」だ。オープンは2014年の9月。小さな店だし、店の前には自転車が飾ってあって、知らない人にはレストランに見えないのではないだろうか。下北沢駅からも、三軒茶屋駅からも徒歩15分くらいとアクセスが良いわけではないエリアだが、舌の肥えた客が夜な夜な集まってくる。
基本的に、料理は店主にお任せという店だ。5000円(7皿)と8000円(10皿前後)の2つのコースで料理を楽しめる。ここで食べられるのは、「○○料理」というカテゴライズが難しい独自性の高い料理で、味も見た目も深く印象に残る、珍しい皿ばかり。どれも美意識を持ちながら、吟味し尽くした素材が細かい仕事で供される。野菜も、肉も、魚も味が濃い。
カウンターの向こうから客に話しかけてくるシェフは、弱冠29歳の森枝幹(もりえだ・かん)。この店を開く前は、南青山のコミュニティ型屋台村「246COMMON」の屋台で腕を振るっていた。当時から人気だったフィッシュ&チップスは、今もサーモン&トラウトで一番人気の料理だ。
「フィッシュ&チップスを作るのに魚を探していたら、小田原でこのかますに出会って。漁師の人と直接やりとりしています。この大きさで背開きにして、丸ごと揚げる。今のところこの形が一番いいかなと思うけど、季節によっては鮎でつくることもあります。生産地って縁が大事。縁がなければ出会えないですから」
食材との出会いは、生産地との“縁”
小田原のかますだけではない。世田谷の豚、山梨県早川町の鹿肉、群馬県甘楽町の野菜……サーモン&トラウトの料理はすべて、森枝が自分の足で探してきた食材でできている。料理を食べながら、一つ一つの皿の上の“縁” を聞くのがまた楽しい。187センチの大きな身体でよく動く。厨房のなかだけにとどまらず、日本国中、食材に出会うために動き回る。いい食材の噂を聞けば、わずかな時間を見つけて、生産地へ行く。その場限りではなく、長く付き合う。
「土曜日の午前中は青山ファーマーズマーケットへ行っています。甘楽町の農家の野菜の店を手伝わせてもらっているんですよ」
そう聞いたので、ある日ファーマーズマーケットを訪ねてみた。その時間はたまたま森枝はいなかったが、お店にいたおばあちゃんは「今日はまだ来てないねえ」と、まるで息子のことを話すように顔をしわくちゃにして笑った。根セロリ、オレンジ色のカリフラワー、ブロッコリー、バターナッツ……。そこに並ぶ野菜たちを見ているだけで、森枝がいなくてもサーモン&トラウトの料理が思い出される。
食材一つ一つにそこまでこだわる森枝。こんな29歳が、どうやって出来上がったのだろうか?
父は「カレー大王」の異名をとるジャーナリスト
森枝幹の父親は写真家で、食のジャーナリストの草分けでもある、森枝卓士氏。「カレー大王」の異名を持ち、世界中を旅してさまざまな料理を食べ歩いた人物だ。2015年末に発売されたdancyu1月号特集『いい店って、なんだ?』で、彼が執筆した「バードランド」という記事に、2人の息子の話が登場する。銀座のバードランドは、ジャズが流れ、赤ワインがあるという焼き鳥店の先駆けとなった名店である。
「今は20代も後半になった息子たちが、小・中学生の頃だ。(中略)食い盛りだった長男が、『鶏も違うけど、塩が違うね』と生意気を言いながら、“おまかせ”をもう一巡食べたいと……」
この「塩が違うね」と言ったという長男が森枝幹である。そのくだりを突っ込むと、「そんなこと言ったかなあ」と照れくさそうにしていた。
「小さい頃から料理人をやろうとは思っていました。父の影響でしょうね。昔から、食卓の上にハーブとかいろんな唐辛子が普通にある家でした。シドニーに世界のベストレストランの3位になったTetsuya’s という店があるんですが、そこの料理本の写真を父が撮っていたりした縁で、小学校高学年のときから『そこで働け』と言われていました」
中学高校時代は本格的にバレーボールに打ち込み、都大会で優勝するなどの結果を出す優秀な選手だった。社会人になったあとも本格的にバレーボールを続ける人生も考えたが、18歳のとき、大阪の調理師学校へ入学した。
「基礎技術はそこで学びました。今思うと……」と森枝は当時を振り返る。「基礎技術に加えて、現代に至る料理人や料理の系譜を体系的に学べる授業があったら、もっと良かっただろうなと思います。今、人気のある高級レストランのシェフの系譜はこうなっていて、どういう修行をしているのか、とか。そういう最新の料理業界の話が若い頃に学べたら、すごくいいですよね」
調理師学校を卒業した後、念願の「Tetusya’s 」へ。オーストラリアでは、レストランでの料理修行をしながら、ビーチバレーの練習にも精を出していた。このとき「バレーボールではご飯を食べられない」と思ったという。
「オーストラリアでは、オリンピック4位になったコーチについたんです。僕より身長が10センチも高くて、しかもはるかに能力も高い。こんな人でも世界のトップにはなれないのかと思い知らされました。これはバレーボールでプロになるのはとても無理だ、と。それで、やはり料理の道で食べていこうと決めたんです。
でも、今の僕が当時を振り返ると、オーストラリアにいた頃の僕はユルくて最悪。あんなに恵まれた環境にいたのだから、もっとしっかりやっておけばよかったと思う。料理に対して、時間をもっと濃く使えたはずだと反省しますね。身銭を切ってビジネスを始めるようになって、すごくそう思います。でも、いつかもう一回、海外でやってみたいと思う気持ちはありますね」
料理人の道はしんどい。でももう一回、料理で海外に行ってみたい
Tetsuya'sは和食とフレンチを融合させ、そこにオーストラリアの食材を組み合わせた料理が楽しめる名店だ。「オーストラリアの、自由で、いろんな要素が混ざっている感じが、すごくいいと思った。もう一度料理で海外に行くとしたら、自分の強みというか、ベースになるものをきちんと身につけてから行きたい。日本人の自分にとって、それは和食だろうと考えたんです」
こうした考えで帰国した彼は、表参道の「湖月」で3年間、和食を修行することになった。
「和食っていうのは、季節に合わせて、毎年同じ事をキチッと同じ状態に仕上げるよう求められます。とてもそれは大変なことなのです。 実際にそういう仕事を隣で見せてもらい、手伝わせてもらったのは、本当に良かったと思っています」
厳しい修行を厭う気持ちは、なかった。学生時代、バレーボールをやっていたおかげだと言う。
「運動をやっていたので、体のキツさとか規律の厳しさとかには慣れてる。(和食店での修行は)とても大変なので、みんながムリだよ、というのも分かるけど、部活で味わったキツさや厳しさを思えば苦じゃなかったです。料理の世界って、結構しんどいことが多いんですよ。深夜まで働いて、翌朝は8時出社。他の店の話を聞くと『終電で帰って翌日は始発で出てくる』なんて若手も普通にいました。修行中の給料はすごく安いし、残業代もない」
和食に限らず、料理人の修行というのは非常に厳しいものである。上下関係が厳しく、かつては殴られたり蹴られたりということも日常茶飯事だったと聞く。そのせいか、女性で料理人を目指す人も少ない。料理人の世界で活躍する若い人は、これから減る一方なのだろうか。
「今の日本の料理人の修行プロセスが正しいと僕は思っているわけではないけれど、最近の若い人が続かないっていうのはよく分かります。でもそういう大変さはパティシエも同じですよね。でもパティシエになる人は減っていないし、女性も増えている。だから職業に魅力があれば、料理人を目指す若い人はいなくなりはしないでしょう。これからは女性のシェフも、もっと出てきていいんじゃないですか」
大阪府大阪市生まれ。スポーツニッポン新聞大阪本社の新聞記者を経てFM802開局時の編成・広報・宣伝のプロデュースを手がける。92年に上京して独立、女性誌を中心にルポ、エッセイ、コラムなどを多数連載。俳優、タレント、作家、アスリート、経営者など様々な分野で活躍する著名人、のべ2000人以上のインタビュー経験をもつ。著書には女性の生き方に関するものが多い。近著は『一流の女(ひと)が私だけに教えてくれたこと』(マガジンハウス)など。http://moriaya.jimdo.com/
ヒダキトモコ
写真家、日本舞台写真家協会会員。幼少期を米国ボストンで過ごす。会社員を経て写真家に転身。現在各種雑誌で表紙・グラビアを撮影中。各種舞台・音楽祭のオフィシャルカメラマン、CD/DVDジャケット写真、アーティスト写真等を担当。また企業広告、ビジネスパーソンの撮影も多数。好きなたべものはお寿司。http://hidaki.weebly.com/