広報は会社の評判を左右する大事な役割

大和証券執行役員 白川香名さん

広報業務に携わって4年半になります。マーケット部門に始まり、その後はずっと法人部門の大和ライフでしたが、入社22年目での広報部への異動は全く予想もしないものでした。そのタイミングは銀行と10年に亘るホールセール証券業務に関する合弁を解消した翌年で、7年ぶりとなる社長交代、東日本大震災による株式市場の暴落、経営基盤確立のための本社機能の集約、経営効率向上、コスト削減への取組み、そして13年ぶりとなるリテール証券業務とホールセール証券業務の統合と、振り返ってみれば、'新'大和証券をどのように打ち出していくのか、どう存在感を高めていくのか、ということについて広報という観点で向かい合ってきた数年間でした。

広報部では、最初は報道対応、その後、宣伝など含め広報全体を見ることとなり、この4月には執行役員(広報IR副担当)になりました。役員就任に際してかけられた言葉は、もう1つ上のレベルで会社全体を見てほしいというものでした。

報道機関相手の広報は、ときに厳しく追及される場面もあります。過去には業界全体がインサイダー取引問題で大揺れしたこともありました。寄せられる質問は、時に想定外のこともありますし、媒体によって聞きたいことも違うでしょう。新聞、雑誌、テレビなど、以前とは全く異なる視点で見るようになりました。一方、宣伝は経費を使うという観点でそもそも立ち位置が異なります。各種広告を掲出するにあたってどのような内容でどういう媒体に掲出するのか、CMであればどのような内容をどう出していくのが今の大和証券グループにふさわしいのか、など関係各部署とも連携して動きます。

世の中に対するアンテナ、という観点では、出来るだけ高くしたいと考えています。とりわけ今は、経営陣、社員と一丸となり会社全体の取り組みを対外的に打ち出していくという仕事を任されていますから、それが誇らしくもあり、気の引き締まる思いでもあります。相手に対して、どのように向き合い、正しくメッセージを伝えていけるか。つまるところは自分が信頼されるかどうかだと思っています。広報業務には攻めも守りもありますが、常に「謙虚に誠実に」を心がけたいと思っています。

ディーリング経験でトイレの速い人に

私が入社したのは89年(平成元年)で、その年の暮れには日経平均が3万9,000円に届こうとしていました。その後マーケットは坂道を転がり落ちるように下がり続け、長いトンネルに入りました。大規模な金融制度改革(金融ビッグバン)により株式委託手数料が自由化されるなど、業界を取り巻く環境も大きく変わっていきました。大和証券は、お客さまの資産純増を第一とする資産コンサルティング型営業推進に舵を切った他、新しいコンセプトのインターネット銀行を開業するなど、新たなビジネスモデルを展開してきましたが、時代を先取りしてきたところがあると感じています。最近はマーケットも堅調で、「春って来るんだな」という気持ちです(笑)。

入社時に配属されたのは債券部で、希望どおりでした。ディーリングルームで債券の売買にかかわりながら、値動きをどうとらえるか、その裏で人の心理はどう動くかなどを学びました。1日でも休むと相場の動きがしっくりきません。相場が読めないのです。なぜこのような動きとなるのか自分なりの説明もつけられなくなるため、夏休み明けに相場に向かうときなどは重たい気持ちでした。一方、想定どおりの相場の動きとなり収益に貢献できている際の達成感は何とも言いがたいものでした。

新人のころは目の前にずらっと並ぶワンタッチフォンが怖かったですね。それぞれが特定の投資家とつながっている電話です。受話器を取っても相手は早口で、最初は何を言っているのか聞き取れませんでした。売りと買いの間違い、金額の間違いは許されないので、常に緊張感に包まれていました。

そんな中、ちょっと困ったのがトイレです。相場は動いていますし、席をはずした間に電話が入るかもしれないと思うと、なかなかトイレに行けません。我慢の限界、そんなときは「すみません。トイレに行ってきます!」と叫び、走って行って戻ります。いまも周りから「トイレが速いね」と言われますが、その名残かな(笑)。

仕事は思いだけではどうにもならないことも

債券部には8年いて、97年に異動した先が国際引受部でした。中国本土の銘柄を初めて東京証券取引所に上場させる案件に携わっていました。使命感に燃えていた覚えがあります。

同年秋、第1子を出産します。つわりで気持ち悪いというのもありましたし、歩いて息切れすることもありましたが、体調をみながら働き続けました。中国にも頻繁に出張していました。ただし上司からは「9カ月になったら飛行機に乗るのは止めてくれ」と言われていましたので、最後のフライトは夏の終わり頃だったでしょうか。

その年は山一證券が自主廃業し、「次は大和か?」とも言われた時でした。会社も業界も一番厳しいときに仕事を離れてしまうことに申し訳ない気持ちがありました。8週間の産後休暇の後、出産前に携わっていた中国案件に再び加わりました。関係者で繰り返し協議し、細かい詰めを行っていきましたが、結局、その案件は成就しませんでした。マーケットが悪くなり、最後の最後で上場は中止となったのです。思い入れの強い案件だっただけに残念でなりませんでしたが、気持ちだけではどうにもならないこともあると学んだ案件でもありました。