20歳から鍛えた「採用」の腕
Yelpは2004年にサンフランシスコで設立され、世界最大規模の地域情報サイト「Yelp」を運営してきました。現在は世界29カ国でサービスを展開し、各レビューは16カ国語に自動翻訳されるという機能もついています。
私は2007年にYelpに転職して以来、アメリカ、ヨーロッパ、アジアの各国で新市場開拓を担当してきました。現地に飛び込んで人々の暮らしや市場の特色を学びながら、人脈を広げて当社のスタッフとなる人材を探していきます。
日本もその1つで、サービス開始は2014年4月でした。Yelpとしては世界で26国目、アジアではシンガポールに次ぐ2国目に当たります。日本は2000年以上の歴史があり、日本食や茶道などの伝統文化を守る一方で、高度な科学技術をもっています。カラオケ、アニメ、コスプレなど世界に広まった独自の文化を見ても、日本人が伝統と近代の融合が得意であることはよくわかります。
日本に来て最も驚いたのは、みなさん本当によく働くということ。私もアメリカでは、かなり働いているほうですが、日本人にはとても及ばないと感じています。
私が初めて企業に勤めたのは20歳のときです。アメリカでは1999年から2000年にかけて最初のドットコム・ブームが起こり、IT業界を中心にたいへんな好景気になりました。大学生だった私は「学校にはいつでも戻れるから休学しよう」と、シリコンバレーの企業に就職したのです。エグゼクティブ・サーチを手がけるイギリス系のヘッドハンティング会社で、製品デザイナーなどの優れた人材をリクルーティングするのが主な仕事でした。リクルーティングの仕事は、以前インターンシップで経験があったからです。
私は優れたデザイナーを見つけるため、亀のような形のバックパックを背負って街を歩きました。デザイナーなら、その風変わりなバックパックに必ず反応するだろうと考えたからです。予想通りに「何それ、面白いね」と声をかけられ、優れたデザイナーと出会うことができました。私が住んでいた街にはデザイナーが多く、まだ20歳だったから思いついたアイデアです。しかし現在でも、自分が探し求めている人たちが集まりそうな街へ出かけ、スカウト活動を展開することはよくあります。
ドットコム・ブームは2002年に去り、私は大学に戻りました。好景気で収入が増える時期には働き、市場が落ち着けば大学で勉強するという選択は正しかったと思います。2003年に大学を卒業したあともエグゼクティブ・サーチで働き、その後4回転職しました。同じヘッドハンティングの仕事か、企業の人事部門で採用などの仕事を担当しました。
給料が半減しても転職したかった
Yelpに転職したのは2007年。その直前まで大企業の人事部門に勤めていたので給料は半減しました。それでもYelpで働きたかったのは、ベンチャー企業の将来性を見込んだわけでなく、私自身がユーザーとしてYelpのサービスが大好きだったからです。
Yelpのサイトでは、飲食店、ショップ、病院はもちろん、靴の修理、ネイルサロン、自動車整備工場など、ありとあらゆる分野のローカルビジネスについてレビューが掲載されています。私は2005年から投稿者の“Yelper”となって1000件以上のレビューを書いていたので、この転職はごく自然なものでした。そのうえ私はスーツを着るのが嫌いなので、大企業と違ってジーンズ姿で出社できるのもポイントの1つでした。
Yelpに入社してすぐ、ワシントンDCで最初のコミュニティマネジャーになりました。コミュニティマネジャーは、その街で“Yelpエリート”と呼ばれるヘビーユーザーのコミュニティをつくり、パーティーやイベントを主催する“Yelpの顔”です。
当時、コミュニティマネジャーは全米に5人ほどしかいませんでしたが、現在は120人を超えています。Yelpの社員も50人ほどだったのが、7年あまりで2500人を超えました。
私はそのまま東海岸のコミュニティマネジャーを監督する立場に昇進し、それからYelpのヨーロッパ進出に向けて足がかりとなる準備を進めるために2年半ほどロンドンに住みました。その間にフランス、ドイツ、オーストリアなどヨーロッパ各国で新規開拓を進めたのです。
新市場ではまず、現地スタッフを採用します。パーティーやレビューを準備する「スカウト」と呼ばれる人たちとコミュニティマネジャーです。同時にサイト立ち上げの準備を進め、準備が整ったところでサービス開始を発表します。
たとえば日本で、コミュニティマネジャーを採用するなら、少なくとも次の条件は満たさなければいけません。英語が話せること、日本語が話せること、文章を書くのが好きなこと、好奇心が旺盛で、素敵なお店や面白いサービスを見極めるセンスがあること……などです。その街で最もクールな存在で、幅広い分野に人脈のあるタイプが求められます。