5年で辞めるつもりが24年以上に

P&Gジャパン 執行役員 
石谷桂子さん 
ブランド・オペレーションズ&ブランドマネジメント担当

就職が決まった頃はP&Gにずっと勤めるつもりはなく、5年ほど働いたら辞めるだろうと漠然と考えていました。私が採用された当時の宣伝本部(現ブランド・マネジメント本部)は大阪の日本本社にあり、東京の実家を離れて大阪で一人暮らしすることになるからです。「大学に4年間通ったのだから、それより多い5年は頑張ろう」と、いずれ東京に戻るつもりでした。当時はまだ、働きながら結婚して2人の子どもを育て、24年以上も勤めるとは想像もしませんでした。

大学の友人たちからは「外資系企業に就職なんて大丈夫?」と言われました。バブル景気の真っ只中。同級生の多くが銀行、証券などの金融機関を志望するなかで、私だけP&Gに就職を決めたからです。

就活の初めには、私も銀行などへOG訪問OB訪問に出かけました。ところが、先輩たちの話を聞いても仕事の内容がまるでイメージできなかったのです。その点、P&Gが扱う日用品は身近だし、自分の使用感が仕事に活かせそうに思えました。学生時代から商品開発や広告宣伝などのマーケティングに興味があったのです。P&Gは部門別採用だから、その道のエキスパートになれるかも……と期待しました。

それに、当時は男女雇用機会均等法の施行から4年目。日本企業の多くは、総合職と一般職に分けて女性を採用するなど、女性活用はスタートしたばかりという印象がありました。一方、P&Gは社員全員が総合職で、女性の活躍も目立っていました。実際、90年代初めでも、宣伝本部の部長級は男女1名ずついて、管理職であるブランドマネジャーにも女性が多くいました。

入社後、洗剤の「アリエール」ブランドに配属されました。2つ上の上司は外国人で社内の公用語はもちろん英語。公式の会議では参加者全員が日本人でも英語です。津田塾大学の国際関係学科を卒業しても、英語はほとんど話せなかったので仕事を通して習得していきました。

そして目標の5年間はまたたく間に過ぎて、阪神・淡路大震災が起きた95年、ブランドマネジャーに昇進します。

「ファブリーズ」の新製品開発を担当したときは、アメリカ人の女性を含む3人の部下ができました。このとき初めて「仕事ってこんなに面白いんだ!」と感じました。自分のディレクション次第で、部下たちが周囲から評価される人材に育っていく。責任は大きいけれど、それ以上の充実感があります。その一方で、私自身の弱みが、部下の強みによってカバーされる。上司から学ぶことも多いですが、部下から学ぶことも負けないくらいあると実感しました。

本物のダイバーシティを知る

そのように仕事が充実してきた96年、プライベートでは結婚しました。ところが1年後、広告代理店に勤めていた主人が東京へ転勤することになり、私は大きな岐路に立たされます。P&Gで仕事を続けたい。でも、それだと主人と離れて暮らすことになる。このときは迷いました。

当時の上司は中国系シンガポール人でした。私が会社を辞めると思われてはいけないので、彼には主人と離れて暮らしていることを報告していませんでした。ところが、人づてに聞いた彼は、私のところへ飛んできて「会社を辞めるんだって!」と予想どおり尋ねました。

「まだ決めたわけではありません」
「なんで相談してくれなかったんだ。僕はキミのことを高く評価しているから、P&Gを辞めないでご主人と一緒に暮らせる方法を探そう」

私は親身になって考えてくれる彼に感謝して、もっと早く相談すればよかったと思いました。それから数日後、彼はまた私のところへ飛んできて「いいアイデアを思いついた!」と言って、「アジアの国へ行かないか」と思いもよらないことを提案しました。香港やバンコクなら現地のP&Gに勤めることができるし、主人の広告代理店も支社があるはずだから、夫婦が共に転勤すれば一緒に暮らせる、「ご主人の会社と交渉しようか」というのです。

私は「これがグローバル企業のダイバーシティなんだ」と眼から鱗が落ちる思いでした。彼自身がアジアの都市をいくつか経験したから、そのアイデアを思いついたのでしょう。P&Gは早くからD&I(ダイバーシティ:多様性とインクルージョン:受容)を重んじてきた会社ですが、残念ながら当時の日本人にはなかなかできない発想でした。

結局、私はP&Gの日本本社が移転した神戸に残ることに決め、2年後に長女を出産するために東京へ戻るまで、主人と離れて暮らすスプリット・ファミリーになりました。

99年に長女を出産し、6カ月の産休に入りました。このとき困ったのは、産休明けにどう仕事に復帰するかです。生まれたばかりの子どもがいるのだから神戸へ単身で戻るのは難しいと思いました。P&Gは東京オフィスもありますが、当時はマーケティングの仕事は東京にはなかったのです。

何か方法はないかと考えていた頃、アメリカの本社がペットフードなどを手がけるアイムスを買収し、東京のアイムス・ジャパンにP&Gから誰かシニアクラスのブランドマネジャーが行けないかというニーズがありました。当時シニアクラスだった私は、まさにうってつけの人材。本当にタイミングよく、東京勤務の道が開けたのです。

仕事人生で一度だけ、弱音をはいた日

ところが、実際に仕事をはじめると、予想を上まわる苦労がありました。

それまでアイムスの商品はペットショップなどの専門店で販売していましたが、P&Gの販売ルートにも乗せてスーパーやホームセンターで広く販売していくことになります。私に任されたのはそのマーケティングです。子どもの頃から犬は大好きですが、ペットケアのビジネスは未知の領域です。

しかも外資系とはいえ、社内でビジネス英語が堪能なのは経営陣ぐらい。女性管理職はゼロでした。そこへ英語をペラペラ話す女性管理者が現れたら宇宙人みたいなものです。

まったく新しいビジネスモデルにかなり苦戦しました。それまで右肩上がりだった会社の業績が若干スローダウンし、私は悔しい思いで毎週のように全国各地へサンプリングに出かけたり、得意先の商談へ同行したりと、必死に打開策を探りました。

しかし本当に大変だったのは、2社間の調整役です。初年度は拡販で売上が伸びたものの、当初計画に比べると半分ほどで、毎日のように神戸・アメリカ双方の経営陣から売上に対する厳しい電話がありました。

このとき初めて、P&G社内で働いていた頃は上司達によって守れていたことに気づきました。復帰後1年でマーケティングディレクターに昇進し、責任範囲も広がっていました。

そして24年間で一度だけ、「こんなにつらいなら辞めてもいいかな」と弱気になりました。しかし主人に相談すると「辞めてもいいよ」とあっさり言われ、逆に私は「絶対に辞めない!」と心に誓ったのです。

そう思ったらもう自分から積極的に動くしかありません。頻繁に神戸にも、アメリカにも足を運びました。自力でネットワークを切り開き、関係者にインフルエンスし、1つひとつ積み上げていったのです。3年目頃から成果が目に見えて表れ、アメリカ本社に「こんな製品が欲しい」と直接言えるほどになりました。苦しいスタートでしたが、この仕事で培ったものは相当に大きかったと思います。

表を拡大
石谷さんのキャリア年表

4年目を迎えた頃、P&Gジャパンの社長とアメリカのペットケア部門の社長とミーティングがあり、私の次のキャリアをどうするかという話になりました。通常のキャリアコースなら神戸に移って洗剤、ヘアケアなど他の商品分野を担当します。しかしそれでは、また東京と神戸でスプリット家族になります。次女も生まれて、子育てに手のかかる時期でした。

「君自身はどうしたい?」と尋ねられたとき、私は即座に「アメリカ本社へ行かせてください」と言いました。

2人の社長は唖然としていました。

「ご主人はどうするの?」
「神戸に行っても家族が離れて暮らすことになるなら、神戸もアメリカも状況は同じです。それならアメリカの方が子供を育てやすいし、学びも大きい。」

こうして2年後の2006年、小学校に上がったばかりの長女と3歳の次女を連れて、私はアメリカへ渡りました。