1921年、大阪府堺市で産声を上げた自転車部品メーカーは、絶え間ない企業努力で圧倒的な技術力を身につけ、今では全世界に従業員1万3342人、売上高3332億円のグローバル企業に成長した。そのシマノがシンガポールに初めての海外工場を建設したのは73年のこと。そこで育ったスタッフが中国やチェコなどに渡り、技術指導などで力を発揮、今ではシマノの海外展開に不可欠な存在となっている。
シンガポールから生まれた
製造プロセスの業務改善
2010年7月のこと、シマノ現社長の島野容三氏はシンガポール・ジュロン地区にあるシマノシンガポールの工場を訪れた。
工場に着くや否や工場スタッフから、「社長。今、新しい製造プロセスにチャレンジしています。ぜひ見てください」と、元気いっぱいの提案があった。
「シンガポール人は非常に改善意欲が高い」。これまでにも、島野氏は彼らの積極的な改善提案に幾度も感心させられた経験がある。ヘルメットをかぶり、足早に現場に向かった。
製造された製品には、どうしてもばらつきが出てしまう。それまでは製造のすべての工程を経て完成した製品を効率よく検査・品質保証することで、基準に満たないものを世に出さないという製品制御が一般的だった。
しかし、今回のシンガポールの提案は、製造プロセスごとに製品のばらつきに影響のあるキーとなるパラメーターをリアルタイムで検出し、そのばらつき要素を即座に自動補正することで、製品品質を保証するものだった。
今までもこの製造プロセスの改善をたびたび検討したが、コストとメリットとの関係から諦めていた。しかし、彼らは急激なデジタル機器の普及に敏感に反応して、そのメリットを自分たちの工場に迅速に取り込み、すでに自家薬籠中の方式として具現化して見せてくれたのだ。
この考えは2014年に建て替えを終えてフル稼働に入った堺の本社工場、 通称SIP(Sakai Intelligent Plant)にも取り入れられている。
“鉄は熱いうちに打たない”
先進の技術で世界へ
自転車業界には部品メーカーと組み立てメーカーがあるが、部品メーカーのブランド力のほうがはるかに強い場合がある。実際、どの部品メーカーの部品を使っているかが自転車の売れ行きを大きく左右する。そのまま自転車全体の性能に直結するからだ。中でも世界のトップブランドに君臨するのが日本のシマノ。変速機やブレーキではシマノのパーツ採用というだけで、その自転車の信頼性が高まるほどだ。
そうしたシマノの名前は世界各地に浸透している。早い時期からの企業戦略が開花した成果だ。
シマノの歴史は大正時代にさかのぼる。1921年に島野庄三郎氏が大阪・堺に島野鐵工所を創業。自転車の後輪に付く、ペダルを止めても車輪が回り続けるギヤ「フリーホイール」の生産に乗り出す。次いで変速機にも手を広げ、57年にはシマノの中核技術ともいえる冷間鍛造技術の研究を開始する。
「鉄は熱いうちに打て」の諺どおり、金属は600度~900度の高温で加工する熱間鍛造が一般的だったが、冷めるときの形状変化があるため、精密な加工が難しかった。
一方、冷間鍛造は常温の金属をプレスして加工する。その分、複雑な工程と高い技術力が必要とされる。だが、軽くて強いという相反する特徴を兼ね備えた金属加工が可能になる。
当時、日本で冷間鍛造技術をモノにしていたのは、トヨタやシマノなど数社だけ。シマノは圧倒的な技術力を背景に、製品競争力を大きく飛躍させた。
シマノは、自転車部品を組み合わせてコンポーネント化して販売する方式を採用。73年に先端技術の粋を集めた自転車用コンポーネンツ「DURA-ACE」を発売し、ヨーロッパの有名自転車レースで好成績を上げたことでブランド力も向上した。
製造設備の革新と並行して、シマノは海外での販売体制強化にも力を注ぎ、65年には早くも米国ニューヨークに現地法人を設立。当時としては商社に任せず、自ら販売会社を設立するのは極めて珍しいケースだった。
当時、米国には自転車部品メーカーはなく、自転車ブームが始まりつつあった米国市場で変速機を中心に確固たる地位を確立していった。
1970年代、米国では山岳地帯を自転車で走行する遊びが流行の兆しを見せていた。そこに目をつけ、シマノはいち早くマウンテンバイク(MTB)用パーツの生産にも乗り出し、今ではこの分野でもトップを独走している。