「君、経営とはつまりこれだよ」

「文書」と聞いて即座に思い出したのが、「KISS」という言葉だ。奇を衒てらうようだが、口づけではない。

帝人 社長 
大八木成男 

1947年、東京都生まれ。71年慶應義塾大学経済学部卒。同年、帝人入社。医薬部門を長く経験。2005年常務取締役就任、08年より現職。写真は同社製素材で試作した電気自動車「ピューパEV」とともに。

まだ私が30代の後半だった頃、イタリアにディ・アンジェリという製薬会社があった。同社は西ドイツ(当時)の製薬会社、ベーリンガーインゲルハイムの子会社。私は当時のディ・アンジェリ社の社長、ドクター・バンキに面会に行ったのだが、私と同世代の彼は、後年、ベーリンガーインゲルハイム社のワールドワイドのチェアマンにまで上り詰めた人物だ。

ドクター・バンキは私を社長室に招き入れると、「君、経営とはつまりこれだよ」と言って、壁に掛けられた額を指差した。そこにはこう書かれていた。“Keep it simple, stupid.”

すなわち、「KISS」である。直訳すれば、「簡潔を旨とせよ。そうでないものは無意味である」となるだろうか。ドクター・バンキは、「シンプルでないもの、要するに複雑な話や複雑な文章は、絶対に本質を突いていない。私の人生の原則は、このひと言に尽きる」と言い切った。“Keep it simple, stupid.”とは、私流に言えば「純朴にして簡潔が原則」ということだ。文章を書く際も、この「純朴と簡潔」を常に念頭に置いて表現していくべきだと私は考えている。

だが、簡潔に書くことは、そう簡単ではない。簡潔とは、単に文章のボリュームが少ないということではないのだ。実は、頭のいい人ほど、こうした勘違いに陥りやすい。フィーリングで内容の絞り込みをやってしまいがちなのである。だが、フィーリングだけで書かれた文章は一見、簡潔に見えても、少し異なる角度から質問を受けただけで、たちまちにして論拠が揺らいでしまう体のものである。

簡潔に書くためには――矛盾することを言うようだが――書き始める前の段階で、フレームワークを可能な限り拡大する作業が必要だ。ビジネス文書には必ず目的があるが、書き出す前に、テーマに関してできる限り広い領域から検討を加える作業が不可欠なのだ。

私は医薬グループの課長だった時代、中国への進出を考えたことがあった。それには現地調査が不可欠だ。その決裁を上司に仰ぎに行くと、「前向きな話だから調査に行くこと自体に問題はないが、現地に行っていったい何を質問したいのか、質問項目を100個書いて持ってこい」と命じられた。

ところが、どうしても80を超えることができない。すると上司がコツがあるのだと教えてくれた。まず大きな質問項目を10個考える。それができたら、そのひとつひとつについて10個の質問項目を考えればいい。ステップを踏めば、質問を100や200考えることなど容易なことだと。

まずは、中国の医薬品市場はどうなっているか、価格はどうか、競合メーカーは、物流は……と大きな項目を考える。次に、「市場」という大項目について、市場規模はどうか、トレンドは、メーカーの繋がりは……というふうに考えていけば、なるほど、100個の質問項目を考えることなど、簡単なことであった。

これはフレームワークを広げるためのひとつの知恵だが、こうした作業を経たうえで書かれた簡潔な文章と、フィーリングだけで絞り込んだ文章は、まったく別ものなのだ。叩き台にして上司やビジネスの相手とディベートやネゴシエーションを行う局面で、圧倒的な差が出るのは、いうまでもない。