ネット上やSNSで多く見られるようになった「討論」や「議論」、「言い争い」。今日もSNSでは誰かと誰かが言い争っているのだけど、僕はその種の議論に参加したことがほとんどない。なぜなら自分が正しいと思わないからだ。

苦悩し、葛藤した末に生まれた文章の魅力

なぜか、ネット上でのそれは、自分の意見を曲げると負けという風潮が強い。僕がある主張を持って意見を言い、誰かが反対意見を述べたとしても、僕はいちばん自分を信じていないので、こいつのいうことももっともだ、となってしまうのだ。たぶん僕がいちばん愚かでいちばん間違っている。きっと君が正しい。

これは他者との議論に限らない。こういった文章を書くときは心の中で自分と議論しながら書くことがほとんどだ。そんなかで絶対に自分が正しいとは思わないので、間違ってるなこれは、自分は愚かだな、と考えながら書いている。それでも、主張したいことをあるから書いている。書くしかないのだ。

それが書く際に身を焦がす苦悩であり葛藤である。僕は絶望から文章を書きだし、最後に妥協を持ってそれを世に送り出す。人の文章を読むときも、誰かがすらすらと書いたものより、苦悩し、葛藤した末に出てきたもの、それが垣間見えるものを好む傾向がある。

自分を疑いながら書く。そういった行為は図らずも自分をブラッシュアップしてくれる。

ノートパソコンを使用している人の手元
写真=iStock.com/golubovy
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ある文章を書いたとき、それが読んだ人に伝わらなかったとしよう。そこで、もっと伝え方を工夫すれば伝わるだろうと努力する。これは自分の主張が正しいと確信しているからできることだ。ただ、その伝える主張が荒唐無稽で明らかに間違っていることだったらどうだろう。

明らかに間違っていることを伝わるように工夫することは詐欺の手法に近い。それよりも、伝わらないということはもしかしてこの考えが間違っているのか、となるほうがいくらか真っ当だ。

なぜライターの仕事が減り続けているのか

自問自答し、葛藤し、苦悩する。本来、書くことはそれくらいの苦行であるはずだ。

生成AIが文章を出力する過程を見ていると、もう鼻歌まじりだ。サラサラと文章が出ている。とても苦悩しているようには見えない。

いちど「書くときに苦悩している?」と質問してみたら、「文章を書く際に苦悩することは一般的です。さまざまな要因がその苦悩を引き起こす可能性があります。その中には以下のようなものがあります。」みたいな回答が返ってきたので、まあ苦悩なんてしたことがないんだろう。

それどころか間違った情報を出力してもなんとも思っていないようだ。平然としてやがる。自問自答なんてしたことがないんだろう。

書き手の苦悩や葛藤、そして自問自答は重要なことだけれども、Webを中心とするメディアではそれが必要とされなくなってきている。利益を出すことが難しいので、数多くの記事を安く、大量にとなっている。じっくりと取材をしたり、書き手がじっくりと苦悩したり、じっくりと調べて書くような記事は採算が合わない。