「さとる」ことで、メタ世界の片鱗を見ることができる?

ここで、先ほどの「さとり」の話を思い出してください。メタ認知を獲得し、時間と空間の認知を自由にコントロールできることがさとりではないかとお話ししました(あくまで私の解釈ですが)。

私たちが生きる現実世界から見て一つ上の世界が「空」だとするならば、さとりを開くこととは、普通では感じるのが難しい「空」の世界を直覚できるようになることではないでしょうか。

そうすれば、7次元や8次元がどうなっているのか、その片鱗を感じることができるかもしれません。

そのために、仏教では瞑想をはじめとした修行があるのです。瞑想の極致で脳がある種のトランス状態になると、メタ世界の片鱗が見える可能性もじゅうぶんあり得ます。

私自身も瞑想中、瞬間的に「あっ」というものを感じた経験があります。言語化することが不可能で、これ以上の表現が見当たらないのですが、体験する前と後では、違う自分になっている感覚がありました。

身体のみではなく、かといって心だけでもなく、自分の全存在を通じて「それ」を直覚するのです。

こうした感覚を「一瞥いちべつ」といって、「さとり」の瞬間的な体験と考えます。スポーツ選手が究極のパフォーマンスを発揮する瞬間や、宇宙飛行士が宇宙から地球を眺めて世界観が変わってしまう体験も、同じようなものだと考えられます。

この瞬間的な非言語の状態に留まることができれば、それが「完全なさとりを開いた状態」ということになるのでしょう。

ところで、仏教には完成させるべき三つの智慧、「三慧さんね」があるとされます。その三つとは「もんしゅう」で、「聞」は知識のインプット、「思」はインプットした知識を自分なりに解釈すること、「修」はそれを自分で実践・体感することです。

さとりを開くために修行があると言いましたが、三つのうち「修」だけではさとりの境地に至ることはできません。

前段階の「聞」「思」でしっかり知識を吸収し、その論理を理解しなければ、せっかく修行で「一瞥」を得て、さとりの片鱗のようなものが訪れても「これだ!」と気づかずに、「何かすごかった」と見逃してしまう可能性があるからです。

今はコンピューターテクノロジーが発達し、小学生でもメタバースの感覚を理解できるようになってきています。これを三慧に当てはめると、現代は人類全体が「聞」「思」の準備ができた状態だといえるのではないでしょうか。

メタな視点で「死」を考えてみる

少し話は変わるのですが、メタバースがあるのですから、「メタ“デス”」があってもよいのではないかと私は考えています。デスはdeath、「死」のことです。

死を迎えるとき、つまり「ここが現実世界だ」と思っている位相空間から退場するとき、われわれは何を見るのでしょうか。

私たちはふだん、メタバース(仮想空間)でアバターを動かして遊び、気が済んだらログアウトして現実世界に戻ってきますよね。

私は思うのです。ひょっとしたら「死」とはこの世からログアウトするようなもので、身体というデバイスを外すことで、一つ上の(メタな)世界が見えるのかもしれないと。

「死」は一般的に、ネガティブなイメージを持たれがちです。けれど、もし「死」が「この世からログアウトする」感覚に近いのであれば、「なーんだ、こういう感じね」と案外、既視感があるのかもしれません。

釈迦牟尼の説法には、「目を覚ましなさい」という言葉がよく出てきます。自分を焼き尽くす煩悩の炎が目の前に迫っているのに、目を開けることなく気づかずにいる。それではいけない、早く目を開きなさい、目覚めなさい、とあらゆる経典で説いています。

また『佛説譬喩経ぶっせつひゆきょう』という経典には次のようなエピソードがあります。

あるとき一人の男が、狂った象に追いかけられて命からがら逃げ惑い、枯れた古井戸に伸びている木の根を伝って隠れようとしました。
しかしその井戸の底には4匹の毒蛇がいて降りることができません。地上では象が猛り狂っています。そしてなんと、男がしがみついている木の根をネズミが囓りはじめました。もはや絶体絶命です。
ところが、その木にあったミツバチの巣から甘い蜂蜜が垂れてきて、男の口に入ります。絶体絶命にもかかわらず、男はもっと蜂蜜がほしくなりました。

これほど恐ろしい状況でも、人間は目先の利益に惑わされてしまうことを物語っていますね。広い視野、つまりメタな視点を持つことがいかに大切であるかを、釈迦牟尼は2500年前から、教えてくれているのです。

これをメタバースの概念に当てはめて考えると、理解しやすいのではないでしょうか。私たちはいま生きている世界を、唯一無二で絶対性のある現実だと思い、その中で快楽を得たり苦しみを得たりして右往左往している。

でも実はそうではない。そこからログアウトする感覚でメタな視点を持てば、新しい次元が見えてもっと自由になれるということです。