この世界も、仏教から見ればメタバース⁉

「この世界」と「メタな世界」の関係について、もう少し考えてみましょう。

私たちは「縦・横・奥行き」のある3次元世界に生きていますから、それより低次元の1次元、2次元を認知することはできます。今お話しした、一段階メタな世界から、この世界を見下ろす感覚と同じです。

逆に、この世界よりも高次元の世界を認知することはできるでしょうか。4次元空間であれば、今いる3次元に「時間」の概念が加わるのだろうとイメージできますが、5次元以上になるとどんな要素が加わるのか、想像さえできませんよね。

以前、「小説の中の主人公は、私に読まれていることを知らない」と言った友人がいて、まさにこのことを表していると思いました。

読書
写真=iStock.com/eclipse_images
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また数学を学んだ友人が「7次元や8次元はシュワシュワッとした感じ」と言っていて、この表現も「理解しがたい」という部分では的を射ていると感じます。

それだけの高次元(メタな世界)になると、たとえ数式で表すことはできても、感覚的にとらえるのは現実的ではないということです。

ここで少し難しい話になりますが、仏教では万物の根源、ものごとの本質は「空性くうしょう」であると考えます。ひとことで言えば「実体のなさこそ本質である」という意味で、有名な『般若心経』に出てくる「色即是空、空即是色」は、これを表した言葉です。

しかし、「空」とは「空っぽ」という意味のような「無」ではありません。詳しくは本書で解説していますが、あらゆるものが出現できる可能性の海、可能性がストックされている蔵のようなものだと今は想像してください。

存在したという空間履歴は消滅しない

「空」はさまざまな可能性を有しているからこそ、そのときどきの因果関係に従って、私たちが認知できる何らかの存在や現象として形而下(※)に現れます。

言い換えれば、私たち人間一人一人を含むすべてのものごとは、この世界に何らかの形で現れているけれども、その実体は、可能性としての「空」なのです。

ということは、あなたも私も「空」という可能性の海から、何らかの因果関係に導かれて身体を持った存在として現れ、寿命を迎えれば消えていくと考えることができます。

ここで大事なのは、たとえ死んで身体がなくなっても、存在したという空間履歴は消滅しないということです。

可能性として存在し、可能性の帰結として実体のある時間があり、そういう時間が「あった」という履歴を残して実体は消えていく。

メタバース上でも、私たちがアバターを作成し、アバターを動かしている時間があり、ログアウトをすればアバターは履歴を残して消失します。

そう考えると「空」の世界からすれば、私たちが身体を持って生きているこの世界こそがメタバースではないでしょうか。

つまり、一つ上の世界から見ると、私たちが生きるこの世界がメタバース。そして私たちにとっては、画面に映し出されたアバターの動く仮想世界がメタバース。こんなふうに、世界は入れ子のようになっているのかもしれないと思うのです。