大人を巻き込んで活動する被災地の高校生

トナカイの研究に加え、もうひとつ彼の心を捉えたのが、東日本大震災のボランティア活動だった。

「震災が起きたとき、僕はまだ小学5年生でした。旭川は震度が小さくてほとんど揺れなかったこともあって、あまり実感がなかったんです。でも、横浜に引っ越してから友人と話したら、すごい震度で大変だったと聞いて、あらためて震災について考えるようになりました。自分の目で現地を見たいという気持ちが芽生えてきて、いろいろ調べてみたら、高校生のボランティアを支援する団体があって、片道分の交通費を補助してくれることがわかったんです。さっそく申し込んで、被災地に行ってみることにしました」

高1の夏休み、ひとりで夜行バスに乗り込み、東北に向かった。

「宮城県や岩手県に行って、被災地で生活されている方や、同年代の高校生と交流しました。そのとき初めて震災の実態を知ることができたんです。それまで机の上で学んだこととはまったく別のもので、やっぱり実際に足を運ばなきゃわからないことがたくさんあるんだなと知りました」

現地の高校生たちは、復興のためにさまざまな活動を行っていた。カフェの運営、物産展への参加、ファッションショーの開催。大人たちを巻き込みながら、積極的に行動する姿を見て、「高校生でも地域や社会に働きかけることができるんだ」と感銘を受けた。

現地の高校生から「ボランティアに来てくれてありがとう」と言われたことが、いまも忘れられない。

「彼は震災体験を外国の方に伝える活動を行っていたんですけど、当時はまだ仮設住宅で暮らしていて、自分のことだけでも大変だったと思うんです。それにもかかわらず、ボランティアの僕に気をつかってくれた。僕はただの高校生で、いまは無力で何もできない。それでも、少なくとも足を運んで、現地のことを知ろうとする努力だけは続けようと決めました」

それから彼は東北に定期的に通い続けた。被災地の多くは過疎地である。日本社会が抱える問題の縮図がそこにはあった。もっと地域や社会とリアルに関わりながら学びたい――そうした思いが膨らんでいった。

自ら決めた津和野への留学

北大SSPの研究活動にしても、震災ボランティアにしても、高校生としては勇気のいる“越境”である。なぜ彼にはそれができたのか。

「子どもの頃から旅行とか、自分で計画を立ててどこかへ行くことが好きだったというのはありますね。中学のときも普通列車で横浜から北海道に帰省したり、箱根まで自転車旅行をしたりしてました。高校時代は、東京から山口までヒッチハイクしたりもしました」

そういう冒険的な行動に、親が寛容だったことも大きいという。

「親も北海道から横浜へ引っ越して、新しい環境でいちからやっていこうとしていたわけで、そういうチャレンジに抵抗がないというか、前向きに捉えられるような家庭環境だったんだと思います」

研究とボランティアで充実した日々を送る一方、高校の授業の優先度は下がっていった。結果的に出席日数が足りなくなり、留年することが決まってしまった。かといって、自分がやりたい活動をやめて、1年生を普通にやり直す気持ちにはなれない。

悩みに悩んだ上で選んだのは、やはり“越境”する道だった。

「自分としてもここはいちど環境を変えたほうがいい、変えたいという気持ちが強くなって。国内、国外を問わず、留学できる高校を調べ始めました。当時はまだ『地域みらい留学』という名前がなかった頃なので(※)、あまり情報がなかったんですよね。そのなかで島根県の数校が留学をやっているということを知って、津和野高校に出会ったんです」

津和野の町を眺める鈴木元太くん
写真=本人提供
津和野の町に出会った

※元太くんが留学した2016年当時は、島根県の数校が「しまね留学」という形で留学生を受け入れていた。それを全国に拡大する形で2018年にプラットフォーム化したのが「地域みらい留学」である。詳しい経緯は次回紹介する。