読売新聞社や日本テレビ放送網などの社長を務めた正力松太郎は、晩年に電波塔の建設を計画していた。いったいどんなタワーをたてようとしていたのか。東洋大学の大澤昭彦准教授の新著『正力ドームvs.NHKタワー』(新潮選書)より、一部を紹介する――。(第2回/全2回)
正力松太郎(写真=朝日新聞社/PD-Japan-oldphoto/Wikimedia Commons)
正力松太郎(写真=朝日新聞社/PD-Japan-oldphoto/Wikimedia Commons

よみうりランドに富士山より高いタワーを建てろ

1966(昭和41)年、正力がバックミンスター・フラーに4000メートル級のタワーの設計を依頼した。建設場所は読売スター・ドームのある多摩丘陵のよみうりランド周辺だ。

バックミンスター・フラー、1972年から1973年にかけてカリフォルニア大学サンタバーバラ校でのツアー(写真=Edgy01/CC-BY-3.0/Wikimedia Commons)
バックミンスター・フラー、1972年から1973年にかけてカリフォルニア大学サンタバーバラ校でのツアー(写真=Edgy01/CC-BY-3.0/Wikimedia Commons

フラーは高さ3700メートルと説明しているが、日本テレビの資料『550mテレビ塔設計に関する考察』(1968年6月)では4000メートルとあるので、ここでは4000メートルと表記する。

いずれにせよ富士山と同程度の人工構造物を立ち上げるプランだ。大風呂敷を広げるのは正力の常であったが、本人は至って本気だった。フラーと共同で計画を担った日系二世のアメリカ人、ショージ・サダオによると、正力はタワーの名前を「世界平和祈念塔(World Peace Prayer Tower)」にするつもりだった。

正力は敬虔な仏教徒で、1964(昭和39)年に開園したよみうりランドにもパゴダ(仏塔)や仏像などが点在する「聖地公園」をつくらせていた。

しかし、フラーはこの名前に難色を示す。塔をつくっても祈りの役には立たないとフラーは考えていた。科学者であるフラーは、自らの設計した建物に宗教的な意味が付与されることを嫌ったのかもしれない。

塔の名前は「読売タワー」

名称変更を条件に設計を引き受けたフラーは「ワールド・マン・タワー(Tower of World Man)」とすることを求めた。この年、フラーは、講演をもとにした書籍『World Man』を著している。

この講演でフラーは、「どこに住んでいるのかと聞かれたら、私は『地球という小さな宇宙船で暮らしている』と答える」と語った。世界が抱える人口問題、環境問題、資源問題を解決するには地球規模で考え、グローバルな視野を持たなければならないと主張した。つまり、タワーを単なるシンボルとするだけでなく、実際に諸問題を解決する手段として構想しようとした。

だが、「世界平和祈念塔」にせよ「ワールド・マン・タワー」にせよ、浮世離れした名前であることには変わりなかった。結局、この塔は一般的には「読売タワー(Yomiuri Tower)」と呼ばれることになる。