紫式部はどんな家庭で育ったのか。歴史評論家の香原斗志さんは「幼いころに母を亡くし、父・藤原為時に育てられた。為時は漢籍や和歌などの学識は高かったが、不器用で処世術には長けおらず、貴族の家庭環境としては恵まれていなかった」という――。
千葉県成田市の成田山新勝寺で2024年2月3日、毎年恒例の「節分会」が行われ、NHK大河ドラマ「光る君へ」主演の俳優吉高由里子さん(右)や岸谷五朗さんらが参加。「福は内、福は内」の掛け声とともに威勢よく豆をまき五穀豊穣や能登半島地震からの復興などを祈願した
写真=時事通信フォト
千葉県成田市の成田山新勝寺で2024年2月3日、毎年恒例の「節分会」が行われ、NHK大河ドラマ「光る君へ」主演の俳優吉高由里子さん(右)や岸谷五朗さんらが参加。「福は内、福は内」の掛け声とともに威勢よく豆をまき五穀豊穣や能登半島地震からの復興などを祈願した

NHK大河で繰り返し父の不遇が描かれる

紫式部の内省的な性格は、常識的に考えれば、家庭環境の影響を受けている。NHK大河ドラマ「光る君へ」でも、父の藤原為時(岸谷五朗)がいかに不遇であったか、繰り返し描かれている。第1回「約束の月」(1月7日放送)から、為時が不遇であることがドラマの中心軸に据えられていた。

為時は安和元年(968)に播磨権少掾ごんのしょうじょうに任ぜられている。播磨国(兵庫県南西部)の三等官だから、たいした官職ではないが、4年の任期が終わってからは、無官(官職についていないこと)の六位として過ごしていたようだ。六位とは、当時の貴族社会において正一位から少初位下まで30階級に分かれていた位階のうち、15番目以下だった。

とはいえ、ぎりぎり貴族と認められる地位ではあったが、無官になると収入が途絶えて生活は苦しかった。紫式部が生まれたのは、為時がちょうど播磨権少掾の任期を終え、無官になった前後だと考えられる。

そこで「光る君へ」では、為時は除目(天皇が臨席する貴族たちの任官のための行事)に際し、式部丞(大学寮と散位寮を管轄する式部省の三等官)に任ぜられるように、自己推薦書を上程して必死に訴えていた。

残念ながら、それは叶わなかったが、右大臣の藤原兼家(段田安則)が、正式な官職ではないものの、東宮の師貞もろさだ親王(本郷奏多、のちの花山天皇)の漢文の指南役に為時を推挙してくれた。

それまで為時の任官を神仏に祈願していた妻のちはや(国仲涼子)は、やっと夫が仕事を得られたので、娘のまひろ(子役は落井実結子、紫式部のこと)を連れてお礼参りに行ったが、帰途、竹林で馬に乗った藤原道兼(玉置玲央)に遭遇。飛び出したまひろに驚いて落馬した道兼は、割って入ったちはやを刺し殺してしまった。