おれはうっかり頭を下げなかった

それにあの二人の下士官だって、命令とはいえ、あのガラス入りの重い額を背負ったまま飛びこんだところで、おそらく自由には泳げないだろう。ひょっとしてあの紙片一枚のために、助かる命も助からないのではないかと思って、おれはうっかり頭も下げなかった。

いまは死ぬか生きるかの瀬戸際、「御真影」どころではなかったのだ。おれは「御真影」の一団をそっけなくやり過ごしておいて、再び後甲板のほうへ急いだ。なにか適当な浮遊物を探そうと思ったのである。

鉄甲板が血のりで滑るので、ときどき四つん這いになって進んだ。おれの前後左右を、やはり同じような恰好でうろたえた兵隊たちが駈けていく。その間をぬって、あっちこっちから、恐怖にかられた兵隊たちの喚き声がひっきりなしに聞こえた。

「沈むぞッ、早く飛びこめ、早く、早く……」
「そっちゃ危ない、渦に巻きこまれるぞ、右へまわるんだ」
「おーい、おれは泳げないんだ。誰か、おい、誰か助けてくれッ」
「タキモトはいないか、タキモト、タキモト……」
「服はぬぐなッ、いいか、着たまま飛びこめ、冷えてしまうぞ……」

舷側から艦内に残っていた角財や道板、マット、釣り床などがつぎつぎに海に投げこまれた。

嵐の上の船からの光景
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「お母あーさん、お母あーさん……」

そのあとから兵隊たちが、ぶつかり合いながら転げおちるように飛びこんでいく。しかし角材や道板の数は知れたものだった。すでにその大方を応急作業に使いはたしていたので……。だから退去がおくれてそれにあぶれたものは身一つで飛びこまなければならなかった。そして数からいってもそのほうがずっと多かった。そのため波に呑まれてそれっきり浮かんでこないものもかなりあった。

みんな先を競って飛びこんだが、なかには飛びこむ決心がつかなくて、血相かえてそこらを狂ったように飛び廻っているものもいた。泳げない兵隊たちだった。

艦尾のジブクレーンと旗竿のまわりにも、そういう泳ぎのできない兵隊たちが、途方にくれて一つところを意味もなくぐるぐると廻っていた。大抵まだ入団して日の浅い十五、六歳の少年兵だった。

戦局が逼迫ひっぱくしていたので、彼らは海兵団でも泳法はほとんど教えてもらえなかった。ただ短期の速成教育をうけただけで、そのまま艦に送りこまれてきたのだ。そのうちの三、四人が、肩をくっつけ合って斜めに傾いた旗竿にしがみついて叫んでいる。

「お母あーさん、お母あーさん……」