「御真影だ、御真影だ、どけ、どけッ」

艦の傾斜はすでに二十度を超えていた。右舷が大きくせり上がってきているので、ちょうど片屋根の上にでも乗っかっているような感じだ。おまけにそこらじゅうに血糊が散っていて滑るので、立って歩くのがやっとだった。

おれは三番主砲の前に立って、いっときどっちへ出ようか迷ったが、足はしぜんに後甲板にむいた。後部のほうが飛びこむのに比較的安全だという固定観念があったのである。村尾をおぶってからずり落ちていたズボンのバンドを締め直しながら、おれは急いで三番主砲の塔壁を右へと廻りこんでいった。

するとその時だ。ざわめいている後ろのほうから、

「御真影だ、御真影だ、どけ、どけッ」

と、人をどかすのを当然と心得たような、居丈高な叫び声が、耳を刺すように聞こえた。

おれは反射的に足をとめて後ろを振りかえった。

見ると晒布で包んだ大きな額をたすき掛けに背中に背負った二人の下士官が、まわりを四、五人の士官たちに守られながら、先頭に立って叫んでいる先任衛兵伍長と衛兵司令の後ろから、傾いたマストの下をこっちにやってくる。それが「御真影」らしかった。

写真1枚を運び出すために甲板は大混乱

武蔵ではふだん「御真影」は右舷上甲板にある長官公室に納めてあった。旗艦をやめて連司(連合艦隊司令部)がおりてからも同じ場所だったが、出撃の際、損傷しては畏れおおいというので、特に下甲板の主砲発令所の中に移した。ここは四方を厚いアーマーで囲ってあって、どこよりも安全だったからである。それをいま艦長の命令でわざわざ下の発令所から出してきたのだ。

「御真影」と聞いて、おれははっとしてみんなといっしょにあわてて道を開けたが、「御真影」の一団は、まるで箒で落ち葉でも掃き散らすように、そこらにおろおろしている兵隊たちを、手を振って押しのけ、突きとばし、甲板を這いまわっている負傷者の頭の上を乱暴にまたぎながら、しゃにむに艦尾のほうへ抜けていった。そのため、それでなくても混乱している甲板は、一層攪乱された。

それを見ておれは、この火急の場合に「御真影」は出さずそっとしておいたほうがいいのにと思った。武蔵も「天皇の艦」である以上、それが「大事な写真」にはちがいないが、写真はあくまでも写真である。生身の天皇でも皇后でもない。それよりも今はできるだけ無用な混乱は避けて、一人でも多くの兵隊が無事に退去できるように考えるのが本当ではないか。