親子、兄弟、姉弟の間にも友情という感情は生まれる

志賀直哉は若い頃、キリスト教に関心があり、内村鑑三かんぞうの集会に参加しました。

しかし、どうしてもキリストの教えを信ずることができず、「もう来ません」と、交流を断ったということです。

やがて、内村の病が重いと聞いた志賀は見舞いに行きますが、面会禁止のために会えませんでした。

しかし、家族が「志賀さんが来ました」と告げると、内村は「志賀が来たか」と言ったということです。なにか万感の思いを感じます。

私は友情は深い人間関係の一つであり、親子、兄弟、師弟の間にも同じような感情が生まれると思っています。

たとえば、量子力学を確立した物理学者ニールス・ボーアと弟子たちの間柄がそうです。量子力学はボーアの愛弟子まなでしである物理学者ハイゼンベルクの着想から始まります。

この師弟は量子力学の共同研究者であり、一心同体のように見られていました。

ある時、ボーアとハイゼンベルクは近くの島まで徒歩旅行し、海岸で一緒に海に石を投げて遊んだということです。光景が目に見えるようです。

海に石を投げる男
写真=iStock.com/FERKHOVA
※写真はイメージです

そして、この島でハイゼンベルクは量子力学の着想を得たのでした。

その後、ボーアは米国でマンハッタン計画に関与し、ハイゼンベルクはドイツ科学界の長となりました。そして、第二次大戦中に二人は会うことになったのです。

その時、世界的に有名なこの師弟は何を話し、何を話さなかったか、今でも議論が続いています。

「心の中の友」との会話を深めていく

ボーアの弟子の物理学者パウリも量子力学の進展に大きく寄与し、ボーア、ハイゼンベルクに次いでノーベル物理学賞を受けています。

パウリは亡くなる時、「会いたい人がいるか」と聞かれ、「ボーア」と答えました。ボーアはすでに亡くなっていましたが、強いきずなで結ばれた師弟には、そんなことは関係なかったのでしょう。

これらの逸話を見ると、友情はお互いが一緒にいなくても続くものであり、いるというだけで心が癒やされる存在だということがよくわかります。

私たちは誰でも、このような関係を望んでいます。仮に物理的距離が遠く離れても、心はいつもつながっていると信じられるのが友情なのです。

友情は愛の一部でしょう。人は愛がなくては生きられません。同じように、人は友情があってこそ、豊かに生きられるのです。

晩年の楽しみの一つにノスタルジアがあります。しかし、人が関与しないノスタルジアはそうありません。懐かしいと思う気持ちの根底には、友情のような関係があるのです。

たとえfriendでなくても、心の中には誰か大切な人がいるはずです。その人との関係が思い出される時、私たちの人生は豊かになるのです。それは至福の時だといえるでしょう。

友情は一緒にいなくても続く。

遠くにいても、たとえ亡くなっても、忘れない。
そんな相手を親友と呼ぶのかもしれません。