指導者の能力のなさを責任転嫁してはいけない

しかし、今の社会は、誰かの指示に従って動くしかできない人は「二流の人材」だとみなされる。自分で判断でき、問題解決できる人材こそ、未来を切りひらくことができる。たとえ組織の中にいても、上からの指示に唯々諾々と従うようでは、高い評価は得られないのだ。

そんな話をある指導者にすると、こう言われた。

「それは、慶應高校さんとか、質の良い生徒が集まっているところのやり方だろう? うちなんかは、自分では何もできない、決められないような生徒が集まっているんだ。ひとつひとつ言ってやって、指示を出してやらないとできないんだよ。ときには怒鳴ったりして、何とかまともなことができるようになっているんだ」

もちろん、生徒の理解度や能力は同一ではないだろう。与えるべき指導のレベルも違うはずだ。しかし、教育の目的が一人で生きていける人材を育てることである限り、指導の方針は最終的には同じであるはずだ。

この指導者は、自分の指導力、能力の至らなさを、生徒に責任転嫁していることにならないか?

だから野球離れが止まらない

頭ごなしの叱責、一方的な指導の押し付けを、「指導者と選手に信頼関係があれば許される。これも指導の一環」と言うのは、言葉の暴力、パワハラの全面的な容認に他ならない。

どんな怒声罵声を浴びせる指導者も、パワハラ指導者も、聞かれれば「指導の一環だった」というだろうし、せいぜい「熱意のあまり行き過ぎた」と反省の弁を述べる程度だ。

そしてパワハラを受けた選手は、指導者や周囲の目が怖いから「言われた僕が悪いんです。監督さんには感謝しています」と言ってしまうのだ。

外形的に「パワーハラスメント」に見える指導は、すべて「パワハラであり教育とは無関係」と認定しないと、こうした事態はエスカレートする。

どんな酷いことを言っても「指導だ、愛の鞭だ」と言えば不問に付されるような事態は、「教育の自殺」と言ってよいのではないか。

2008年、文部科学省は「生きる力」を学習指導要領の理念に掲げた。

その第一項「知」では、

知=確かな学力
基礎、基本を確実に身に付け、いかに社会が変化しようと、自ら課題を見つけ、自ら学び、自ら考え、主体的に判断し、行動し、よりよく問題を解決する資質や能力

としている。自ら考え、主体的に判断し、行動する能力を身に付けることこそがこれからの「教育」に求められているのだ。

高校野球が「教育」を標榜するのであれば「愛の鞭」などの旧来の考え方を排除し、若者に生きる力を身に付けさせる新しい教育を目指して変貌すべきだろう。

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