「その時代にその名前で呼ばれていなかった」では理由にならない

法隆寺を建てたのは厩戸皇子であり、聖徳太子ではないとか言われたら、小学生がクイズで「法隆寺を建てたのは大工さん」と言ってんのと同じです。脱・皇国史観の成れの果てとしか言いようがない。大山さん、自分の支持者相手には意見を言うのだけど、反論に対して正面から答えず、「反論がなかった」とか言い出すんで、私の性に合わない。

あんまり何回も言いたくないのですが、「その時代にその名前で呼ばれていなかった」は、不在の証明でもなんでもありません。北条早雲は生きていた時にそんな名乗りはしていません。また、北条政子が「政子」と名乗ったのは、夫の頼朝死後二十三年目です。頼朝が妻に「政子」と呼びかけたことは一度も無かった。しかし、「北条早雲」「北条政子」は立派な歴史用語です。

現代でも「平成上皇」「令和天皇」といえば、「勝手に殺すな!」と怒られます。「平成」「令和」は死後に贈られる予定の名前ですから。ただし後世の人が平成時代や令和時代を語るのに、そういう呼び方をしても何の問題も無いでしょう。

言葉は事象を示す記号でもあるのですから借り物、本質的な議論をしないと。そして最近は中世史でも考古学の成果を多く取り入れています。たとえば、信長の延暦寺焼き討ちは言われてきたほど大規模ではなかった、とか。これが古代史になると、大きく変わります。

長らく、「日本の最古の貨幣は七〇八年に鋳造・流通が開始された和同開珎わどうかいちんだ」とされていました。しかし、存在は知られていたものの年代が確定していなかった富本銭ふほんせんが、一九九〇年代以降の発掘調査で、和同開珎よりも前につくられたものであることが確実となり、日本最古の貨幣とされています。

片っ端から事績を否定するのが実証主義ではない

最初に天皇を名乗ったのは誰か論争も同じです。

本題に戻ると、「十七条憲法偽作説」を採る人が、鬼の首でもとったかのように指摘する言葉が「国司」です。十七条憲法第十二条に「国司」が登場します。「国司」は、大宝律令以降に使われるようになった地方官僚の名称で、奈良時代にできた言葉が時代を遡って使われているのはおかしい、捏造だ、と主張しています。これについては、大津透氏が次のように解説しています。

大化改新の時の「東国国司」のように、中央から地方に派遣され、屯倉の管理や国司を監督する臨時の使者は(クニノ)ミコトモチとよばれ国宰・宰などの字があてられる官があり、『日本書紀』編者がそれを「国司」と記したと考えればよいだろう。(前掲『天皇の歴史1 神話から歴史へ』三五頁)

狩野(晴川院)養信筆「聖徳太子二王子像」(模本)東京国立博物館蔵
狩野(晴川院)養信筆「聖徳太子二王子像」(模本)東京国立博物館蔵(画像=CC-PD-Mark/Wikimedia Commons