いよいよ西軍に対する家康の陽動作戦が始まる

家康は大垣城攻めをすれば時間を費やすこと、西軍の小早川秀秋や吉川広家が内応を約束していることなどを考慮して、大垣城を素通りしてただちに西進し、三成の居城である近江佐和山城(現在の滋賀県彦根市)を落とし、さらに大坂まで進撃することにした。

これは西軍の本拠を一気に衝く策だが、旧日本陸軍参謀本部が編纂した『日本戦史関原役』(1893年)以来、家康はあえて作戦を秘匿せず、東軍が上方に向かうという情報を流した、と考えられてきた。家康の真の目的は、西軍を大垣城外に誘い出し、家康得意の野戦に持ち込むことにあったというのだ。

徳富蘇峰は『近世日本国民史家康時代上巻』(1923年)で「そはこの野戦において、西軍の主脳に大打撃を加え、彼らをして一敗地に塗れしむるは、東軍として、最も得策であるからだ。すなわち家康としては、西軍が城を出ずれば、もっとも妙、しからざればこれに頓着なく、前進すべく、いわば両途かけたのだ」と解説している。

西軍8万対東軍7万、包囲された東軍が不利と思われたが……

はたして西軍は動いた。美濃と近江の国境に全軍を進め、近江への街道を封鎖することで東軍を阻止する作戦に出たのである。大垣城には福原長堯ながたからを残し、西軍の諸隊は石田隊を先頭に、夜陰の中を行軍し、南宮山の南を迂回うかいして関ヶ原に全軍を展開した。

呉座勇一『動乱の日本戦国史 桶狭間の戦いから関ヶ原の戦いまで』(朝日新書)
呉座勇一『動乱の日本戦国史 桶狭間の戦いから関ヶ原の戦いまで』(朝日新書)

最初に到着した石田三成は、北国街道を押さえる笹尾山に陣を敷いた。ついで島津義弘がその南で北国街道沿いの小池村辺りに、小西行長がその南の北天満山、宇喜多秀家がさらに南の南天満山に布陣した。もう一つの近江に至る街道である後の中山道をやくする山中村辺りは、北国攻めから戻ってきた大谷吉継らの部隊が既に占拠していた。さらに南の松尾山には、小早川秀秋の部隊が入っていた。南宮山には毛利勢が従前より布陣していた。『日本戦史関原役』によれば、西軍の総兵力は7万9000人であったという。

西軍が大垣城を出たことを知ると、家康は進軍を開始した。15日寅の刻(午前3時頃)のことである。東軍の諸隊も相次いで関ヶ原へと向かった。明け方、東軍は関ヶ原に到着し、西軍に対して東方に布陣した。その数は7万人ほどとされる。兵力はほぼ互角であるが、後方の東を大垣城の西軍に、前方の西を西軍主力に、南を南宮山の毛利勢に、北を山に包囲された東軍は、傍目はためには圧倒的に不利だった。

しかし実際には松尾山の小早川秀秋や南宮山の吉川広家(毛利勢の先鋒)が東軍に通じており、包囲網は穴だらけだった。西軍は東軍の先回りをして万全の布陣を整えたつもりだったが、既に家康の術中にはまっていたのである。

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