「玉の輿」の語源となったシンデレラガール

江戸時代一番のラッキーガールは誰かといえば、間違いなく「玉の輿」の語源となったといわれる徳川家光の側室桂昌院(お玉)であろう。

桂昌院
桂昌院(画像=長谷寺所蔵/CC-PD-Mark/Wikimedia Commons
渡部昇一『決定版・日本史[女性編]』(扶桑社新書)
渡部昇一『決定版・日本史[女性編]』(扶桑社新書)

京都の八百屋仁左衛門の娘であった。父親が死に、母親が二条家の家臣本庄宗利と再婚する。この本庄は家康の側室お万の方とゆかりがあった。お万の方は、家康の正室築山殿の侍女であった。当時32歳の家康は、湯殿でお万の方に手をつけ、彼女は結城秀康を産む。結城秀康は早くして亡くなるが、越前福井六十七万石を与えられていた。そのお万の方の家と二条家家臣の本庄宗利と関係があったわけである。

そうしたコネクションにより、お玉は16歳の時に江戸に出て、将軍家光の側室お万の方(家康の側室お万の方とは別人)の部屋子となった。そして、間もなく大奥へと上がった。美しいうえに、町娘として育っているから、普通の公家の娘や大名の娘と異なり、性格や物腰がまどろっこしくなくシャキシャキしている。大奥の中では異色の存在感であった。そこが男色の気味があった家光の目を引き、やがて手がついたというわけである。

八百屋生まれの劣等感から教育ママぶりを発揮

お玉は亀松、徳松と2人の男子を産んだ。最初の亀松は夭逝ようせいする。一方、徳松が幼い頃から利発であったので、家光はお玉に「今より書を学ばせ聖賢の道に心を入れ、文を読ませよ」と言ったという。お玉は八百屋の娘だという劣等感も手伝ってか、教育ママぶりを発揮するようになった。徳松は期待によく応え、優秀で将来を嘱望される存在となっていく。

家光が亡くなると、家綱が継いで4代将軍に就いたが、家綱も間もなく死去する。延宝8年(1680)のことである。家綱には嗣子ししがないため、5代将軍候補は曲折を経て、上州館林で二十五万石藩主となっていた徳松と異母兄の甲府二十五万石藩主綱重の二人に絞られた。

幕府上層部の意見は分かれたが、大老酒井忠清は京都より皇族を迎えて将軍と仰ぐという考えを持っていたが、老中堀田正俊が論破して、お玉の息子、すなわち徳松、後の綱吉が選ばれた。むろん堀田正俊はその後大老に格上げとなっているが、4年後、大奥と連携した堀田のやり方を憂えた若年寄の稲葉正休に江戸城内で殺された。