最近の理系の人は油断がならない。文章がやたらうまいのである。養老孟司先生も池田清彦さんも茂木健一郎さんも春日武彦さんも、みな達意の日本語の書き手であり、恐るべき読書家であり、なまじいな文学研究者など足元にも及ばない。加えて「科学研究」という現場を持っていて、それを推論のたしかさを検証するときのものさしにしている。これでは文系の学者は歯が立たない。

福岡先生もそんな「達意の理系文章家」の1人である。とにかく「わくわく感」のある文章を書く。本書は開巻いきなりこんな文章から始まる。〈司会者が次の演者の発表をアナウンスすると会場は水を打ったように静かになった。私は発表者がどこから現れるのかと目を泳がせていた。名前は知っているが、どんな人物なのかはわからない彼をいち早くとらえようと。〉

みごとな「つかみ」である。

はじめて福岡先生の本を読む人は、とりあえず『できそこないの男たち』というタイトルと、分子生物学者が書いたらしいということしか知らずにぱらりと本を開く。するといきなりこの3行が目に入る。読者は「名前は知っているが、どんな人物なのかはわからない“彼”をいち早くとらえようと」少し腰を浮かせる。すると、次の頁では、「私」がコロラド山中でノーベル賞級の科学的発見が発表される学会の席に立ち会っていることを知らされる。どうしてまた福岡さんはそんなところに、と読者の頭に疑問符が点じると、次の頁では「日本の大学院を修了した私は、博士号をとったものの職がなかった」というシーンにカットバックする。

ここまで読んで「福岡先生、うますぎ」と本から顔を上げて天を仰いでしまった。分子生物学者にしておくのは惜しい。

このあと17世紀オランダのレーウェンフックの顕微鏡の話になり、ネッティ・マリア・スティーブンズがどんなふうにしてチャイロコメノゴミムシダマシの精子と卵子を標本化したのか詳細な説明があり、彼女の忍耐づよい観察がY染色体という仮説を導いた過程が知らされ、そこから、「男性化決定遺伝子」をつきとめようとするペイジとグッドフェローの熾烈な競争の話になり(見つけたほうがノーベル賞という戦い)、なぜオスはメスより短命であるかについて分子レベルでの理由が明かされ、最後にハーバード大学医学部教授ナダル・ジナール博士の栄光と没落の短いエピソードを綴って本書は終わる。

17世紀のオランダから現代のボストンまで、極小のDNAの世界から三重県桑名市のナガシマスポーツランドまで福岡先生は私たちを時空を超えて自在に連れ回し、その最後に私たちはめまいのするような結論に立ち会うことになる。

オスがオスであることのあらゆるハンディに耐えてなおオスであるのは射精感の本質が加速覚であり、それが「時間の風圧」を感じさせてくれるからであるというのが本書の「めまいのするような結論」である。

「時間の流れを知るたったひとつの行為がある。時間を追い越せばよい」という言葉に私は呆然とした。人はどうやって「時間を追い越す」のか。それは私自身が時間論研究の中心に据えてきた問いだったからである。本書はそれに「そんなことを考えるのは君がオスだからだ」と答えたのである。私の目がうつろになるのも当然である。