家康が「もう殿下に戦場で陣羽織は着させない」と言った逸話

謁見えっけんの前日、秀吉は家康を訪ねると手を握って頼んだという、次の逸話があります。秀吉は、信長の盟友だった家康を家来だった自分より格上だと持ち上げ、そのうえで「明日は貴殿を家来として扱うが、天下泰平のため、一肌脱いでほしい」と言いました。家康も心得たもので、翌日、諸大名が居並ぶ場で平伏すると「今後は私が戦働きをいたします。殿下が陣羽織をご着用される必要はございません」と申し述べ、秀吉が着用していた陣羽織を貰い受けたというのです。

この逸話は創作でしょうが、秀吉と家康の間に主従関係が設定されたことがよくわかりますし、何よりも2人の性格や関係性が示されていて、興味をそそります。いずれにせよ家康は、今川氏、織田氏と続いてきた臣従および忍従の日々から解放されたのも束の間、秀吉のもとで“我慢”を強いられることになったのです。

1586(天正14)年、家康は居城を17年間過ごした浜松城から駿府城(現・静岡市)に移しました。しかし1590(天正18)年の小田原征伐後、家康は豊臣秀吉の命により関東に転封されてしまいます。

「大坂夏の陣図屏風」右隻
「大坂夏の陣図屏風」右隻(画像=大阪城天守閣所蔵/CC-PD-Mark/Wikimedia Commons

関東転封で家康の石高は130万石から250万石へ倍増

これにより家康は、武蔵国、上野国、下野国(現・栃木県)の約半分、相模国(現・横浜市の一部と川崎市を除く神奈川県ほぼ全域)、下総国(現・千葉県北部、茨城県南西部)、上総国(現・千葉県中部)、伊豆国(現・静岡県伊豆半島)の7カ国を領し、石高は130万石から250万石に増えました。豊臣家(220万石)をも凌ぐ、日本一の大大名となったのです。

家康は江戸城に入ると、徳川四天王をはじめとする家臣を支城に置いたり、直轄地の代官に抜擢したりして、難なく統治していきます。1592(天正20)年には朝鮮出兵が始まりますが、家康は渡海することなく、伏見城(現・京都市)に滞在して、豊臣政権の中枢に身を置くようになります。前述の石高数も含めて、家康の存在感が否応なく増しました。さらに、前田利家、毛利輝元らと共に5大老にも就任しています。

1598(慶長3)年、秀吉が死去。ついに、家康に天下取りのチャンスがやってきました! 家康は禁じられている政略結婚を繰り返し、加藤清正や福島正則といった秀吉子飼いの大名を味方につけたりしていきます。これらの所業を家康の専横と受け止めた石田三成は、危機感を募らせます。そして、全国ほとんどの大名を巻き込む、天下分け目の戦いへと発展していきました。関ヶ原の戦いです。