豊臣秀吉の死後、徳川家康が石田三成らを破った関ヶ原の戦いは「天下分け目の合戦」といわれている。東京大学史料編纂所教授の本郷和人さんは「関ヶ原の勝ちは政治的勝利」とする――。

※本稿は、本郷和人『天下人の軍事革新』(祥伝社新書)の一部を再編集したものです。

狩野貞信作、彦根城本「関ヶ原合戦屏風」
狩野貞信作、彦根城本「関ヶ原合戦屏風」(画像=関ヶ原町歴史民俗資料館所蔵/CC-PD-Mark/Wikimedia Commons

秀吉の家臣になった家康は「新たな我慢」をすることに

小牧・長久手の戦いはその後、両軍の睨み合いが続きました。天下統一事業を急ぐ羽柴秀吉は、合戦で家康を屈服させることは困難と判断、政治的に追い詰める方向に転換します。1584(天正12)年11月、秀吉と織田信雄は和睦しました。同盟を結んでいた信長の遺子を助けるという大義名分を失った家康は、兵を引くしかありません。

家康は、秀吉の要請で次男の於義丸を人質に送ったものの、臣下の礼を取ろうとしませんでした。局地戦とはいえ、小牧・長久手の戦いの戦闘で勝利していることが、ここで効いてきます。さらに人質を求める秀吉に対し、徳川家中は、酒井忠次、本多忠勝らの強硬派と石川数正らの融和派に分裂しました。1585(天正13)年11月、数正が出奔する事件が起きます。家康の家臣の筆頭は東三河を本拠にする酒井忠次、数正は序列2位で西三河を本拠にしていました。

数正の出奔は、両派の対立が原因と考えられなくもないのですが、私は単に秀吉の誘いに乗っただけだと思います。当時の秀吉は、各大名家の有力家臣をしきりにヘッドハンティングしていました。たとえば、島津家の伊集院忠棟、大友家の立花宗茂、丹羽家の長束正家、伊達家の片倉景綱などで、彼らに独立した大名になるようにすすめています(景綱は主家を変えず)。

秀吉のすごさはなりふり構わず目的を遂げること

これは、譜代の家臣を持たなかった秀吉が有能な人材を求めたこともあるでしょうが、有力な家臣は仕えている大名家の重要機密を握っていますから、彼らを高待遇で引き抜くことで大名家の機密データを取ろうとした意図もあったでしょう。三河武士でも、好条件を示されれば秀吉のもとに行くこともある。それだけのことです。

数正出奔の翌年10月、家康は大坂城に出向くと、秀吉に臣従します。秀吉は家康に、妹の朝日姫と母の大政所を人質に差し出しています。通常、臣下になる者が人質を出しますが、メンツなどどこへやら、秀吉はこの逆を行なったわけです。秀吉のすごいのは、このようになりふりかまわず、あらゆる手を使って目的を遂げることです。これは、家康との性格・戦略の違いなどとすますべきではなく、別次元と言っていいでしょう。