「誰かの役に立っているか」は関係ない

もちろん生命を論じるに当たり、「誰かの役に立っているか」を基準とする考えは微塵もない。だが、生存権を全うするにあたって「生産性の有無」もしくは「他人の役に立っているか否か」を条件とすべきと言う人たちが実在する今、その思考レベルに下りて反駁することを試みるとしたら、これらの人が誰かの役に立っている事例を提示することが、一番説得力があるだろう。

“きれいごと”を言うつもりなどないが、これらの人たちであっても、「誰かの役に立っている」ことを見出すことは、その気になれば誰にでもできる。ただ、これらの人のことを「役立たず」との認識で染まった色眼鏡をかけて見る人には、もちろん無理だ。

一見、話が通じないと思われがちな認知症の人であっても、「この人はいったい何を訴えようとしているのだろうか」と積極的に相手の気持ちに入り込んでいく姿勢で臨めば、今まで気づかなかったことが見えてくることも往々にしてある。その「気づき」こそが、大きな学びなのである。

また言葉を発することや自ら身体を動かすことのできない、常時なんらかの看護や医療、介護が必要な人であっても、日々の小さな変化は必ずあって、それらはじっさいに接する人にしかわからないし、その「気づき」も同様に重要な学びだ。

車椅子にのったシニア男性に話しかける医師
写真=iStock.com/byryo
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簡単に「命の選別」を語る人が多すぎる

私のような医師だけでなく、看護師や理学療法士、介護士、看護学生、医学生たちが、これらの「学び」から得た知識や技能はそのつど蓄積され、その当事者にだけでなく、将来彼らが接する人たちに活かされていくのだ。

「生きる価値のない人」「死んでもかまわない人」など、誰ひとりいない。少なくとも、それを第三者が勝手に決めつけることなど、できるはずはないのである。

この今さら言うまでもないことを、わざわざ今あえて言わねばならないほど、私たちを取りまく「命の選別」を語る言説に恐怖を感じているのは私だけだろうか。

「福田村事件」を100年も前の遠い過去の、今となっては繰り返されることなどありえない昔話で片づけてしまって、本当に良いのだろうか。むしろ「命の線引き」を軽々に語る寛容さを欠いた今こそ、この過去の愚かな過ちが再び繰り返される危機に直面しているのではなかろうか。

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