東国に領地替えになっていたから後方支援になった家康

『徳川実紀』の逸話からは、家康は「自らは朝鮮に渡海することはないだろう」との目算は持ちつつも、いざとなれば「渡海して戦う」との気概・覚悟を持っていたことが垣間見えます。しかし、先述のように、家康が朝鮮に渡海して、戦うことはありませんでした。

それはなぜなのでしょうか。その「謎」を解く鍵は、朝鮮出兵の際の軍勢編成にあります。文禄の役の時、軍勢は全体で「九番」に編成されましたが「一番」は小西行長や宗義智らの軍勢。「二番」は加藤清正や鍋島直茂らの軍勢。「三番」は黒田長政、大友義統らの軍勢。「四番」は島津義弘らの軍勢。「五番」は福島正則・蜂須賀家政・長宗我部元親らの軍勢。「六番」は小早川隆景・毛利秀包らの軍勢。「七番」は毛利輝元の軍勢。「八番」は宇喜多秀家の軍勢。「九番」は羽柴秀勝や細川忠興らの軍勢でした。

家康が天下を取れた理由は幸運にも出兵を免れたからか

九州に領地を持つ大名、四国の大名、中国地方の大名がズラリと並んでいることが分かります。九州・四国・中国地方の大名が配置されているのです(主に、西日本の諸大名が朝鮮へ出征することになった)。家康や前田利家・伊達政宗・上杉景勝といった東国・北陸の大名は、後詰め(先陣に対する控えの軍隊)として、肥前名護屋に在陣することになったのでした。家康らは軍陣編成上の順番が後方であったために、文禄・慶長の役で朝鮮に渡海せずに済んだのです。

「歴史にもしも」はタブーといわれますが、もし、秀吉がもっと長生きして、朝鮮での戦が長引いていれば、徳川軍も渡海していた可能性も十分あるでしょう。軍陣編成上の序列が後方であったというのは、運が良いと言えます。無用の損失を避けることができたからです。

家康が天下を取れた理由の1つを「朝鮮への渡海を控えて戦力を温存した」ことと述べる人もいます。しかし、家康の意思で「渡海を控えた」というのではなく、西日本の大名を中心とした軍陣編成が、たまたま有利に作用したと言えましょう。よって、家康の所領が九州や四国にあったならば、徳川軍も海を渡った可能性が高いのです。

※主要参考文献一覧
・笠谷和比古『徳川家康』(ミネルヴァ書房、2016)
・藤井讓治『徳川家康』(吉川弘文館、2020)
・本多隆成『徳川家康の決断』(中央公論新社、2022)
・濱田浩一郎『家康クライシス』(ワニブックス、2022)

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