念願の「源氏」を手に入れた

10月14日に家康は浜松を立ち、上洛の途につくが、上洛を決断してから2週間以上経過している。これは上洛の準備期間でもあろうし、秀吉が大政所を真に下向させるか否かをじっくりと家康は見ていたのではないか。実際には大政所は10月18日に岡崎に到着、家康は同月20日に岡崎を出発し、上方に向かっている。

もし、この間に、秀吉側が「やはり、大政所を下向させない」という判断をしていたら、おそらく、家康は上方に向かわなかったのではないか。家康の身の安全が保証されない可能性があるからである。よって、私は朝廷官位の授与と共に、やはり大政所の下向も上洛の最終決断には大きな影響を与えていると考える。

さて、大坂で秀吉と対面した家康は、11月5日には、秀吉に従い、参内し、正三位中納言に任命された。秀吉の弟・羽柴秀長と同位となった。ちなみに、この時、家康は姓を「藤原」から「源」に改めたという。家康から秀吉への働きかけがあったと思われる。

家康は永禄9年(1566)に、朝廷から従五位下三河守に叙任されたが、この時に苗字を「松平」から「徳川」に改めることも認められた。しかし、姓は、家康が希望した「源」ではなく「藤原氏」とされてしまう。これは、家康の叙任を仲介した近衛前久が藤原氏だったことによるとされる。

秀吉によって家格が上がっていく

家康が源氏を名乗りたいと熱望していたことは、元康と名乗っていた若い頃の文書の署名に「源」と記していたことからも分かるが、それだけに藤原氏とされてしまったことは残念ではあったろう。

家康の「藤原」から「源氏」への改姓であるが、天正16年(1588)4月に行われた聚楽第行幸と関連付ける説もある。聚楽第とは、秀吉が京都に造営した壮大な城郭風の邸宅のことだ(1587年造営)。

『聚樂第屏風圖』部分(三井記念美術館所蔵)(写真=三井文庫蔵/CC-PD-Mark/Wikimedia Commons)
「聚樂第屏風圖」部分(三井記念美術館所蔵)(写真=三井文庫蔵/CC-PD-Mark/Wikimedia Commons

その邸宅に秀吉が後陽成天皇を招いたのだ。その行幸行事に際しては、諸大名は上洛することが求められ、当然、家康も上洛している。聚楽第に参集した武家領主は、秀吉への臣従を誓約させられることになるが、その時の起請文(誓約書)に家康は「源家康」と署名している。

ちなみに、家康は行幸の直前に、秀吉の執奏により、「清華成」を果たす。清華家とは、太政大臣まで昇進可能な、摂関家に次ぐ公家の家格に上がることである。織田信雄や羽柴秀長・秀次らも清華成している。

家康の源氏改姓が、聚楽第行幸をきっかけとする説の裏には、同年正月に足利将軍家が終焉しゅうえんしたことがあるという。