手紙に書かれていた意外な署名

重要なのは、文書の発給者(家康)の署名で、そこには「三位中将藤原家康」と記されているのである。これは、家康が三位中将(従三位右近衛中将)に朝廷から叙任されたことを示している。三位中将という位は、一般の武士から見れば、目も眩むような高位であった。ちなみに、秀吉はこの時、従一位関白という朝廷官位の最高位を手にしていた。

家康は永禄9年(1566)には関白・近衛前久を頼り「従五位下三河守」に任命されている。若い頃から家康は朝廷官位の重要性を認識し、うまく活用してきたと言えよう(従五位下三河守の官位は、家康に三河支配の正統性を付与したと思われる)。さて、では今回の従三位右近衛中将の位のことである。

天正14年(1586)9月24日、秀吉からの使者と織田信雄の使者が岡崎城にやって来たので、家康は浜松城から岡崎に向かい、使者と対面する。そして、その2日後の同月26日に、徳川諸将は岡崎城への参集が命じられ、家康から上洛する旨を伝達されるのだ。上方からの使者と会談した結果、家康は上洛を決意したと言えよう。

この際に、秀吉の使者が家康に伝えた「秀吉の言葉」が重要であろう。おそらく、秀吉の使者は、家康が上洛した際には身の安全を保証すること等を述べたのだろう。それと共に、秀吉使者は「三位中将」の宣旨(天皇の命令を伝える文書)をもたらしたのではないかという説もある。

重要文化財「豊臣秀吉像」(部分)。慶長3年(1598)賛 京都・高台寺蔵。〈伝 狩野光信筆〉
重要文化財「豊臣秀吉像」(部分)。慶長3年(1598)賛 京都・高台寺蔵。〈伝 狩野光信筆〉(画像=大阪市立美術館/CC-PD-Mark/Wikimedia Commons

家康は官位の誘惑に負けた

前述の家康から遠江国寺院に宛てられた文書の日付は「九月七日」、よって、三位中将の叙任(宣旨作成)は9月7日だったとされる。9月7日に作成された宣旨を、秀吉の使者が携えて、9月24日に家康に下した可能性が指摘されているのだ。

そうしたことから、この三位中将の叙任・宣旨発給こそ、家康が上洛を決意した一番の理由とする説もある。

家康は秀吉の斡旋した朝廷官位の「誘惑」に負けたというのだ。この説を唱えるのが歴史学者の笠谷和比古氏(国際日本文化センター名誉教授)であり、その著書(『徳川家康』)の中で「筆者がここで強調したいことは、家康の上洛決断が、世に言われている大政所の人質提出によってなされているのではなく、三位中将という朝廷官位の権威によって実現されていたという事実である」とまで述べられている。

確かに笠谷氏が主張されるように、三位中将の官位も家康にとって魅力的であったろうし、家康の上洛決断に影響を与えたものと思う。ただ、私は秀吉が実妹・朝日姫を家康の正室として嫁がせ、実母・大政所をも三河に人質として下向させるという決断をしたことも、家康にとっては大きかったと推測している。