1年以上かけ、厚さ50センチの公文書を開示

それでも僕は厚労省への「行政文書開示請求」を行ってみることにした。インターネット上での手続きは煩雑で、一般の人にはハードルが高いように感じた。僕も前のめりになった直後でなければ、煩雑さに負けて、断念していたかもしれない。通常であれば開示まで2カ月以上かかるとのことだった。僕は以後、この手続きを何度も繰り返した。

硫黄島遺骨収集史の起源は、初の政府調査団が硫黄島に派遣された1952年だ。僕はこの調査団の記録がつづられた同年から、昭和が終わった1988年度までの報告書をすべて開示請求した。実際に全開示が終わるまで1年以上要した。「不開示」となった報告書はなかった。ただし、個人名など黒塗りになっていた部分はあった。

これまでに開示された報告書は年度ごとにファイルに納めた。すべてを積み上げると高さは約50センチになった。情報公開のために支払った金額は数万円になった。元厚労省職員の指摘通り、僕にとってなかなかの出費となった。妻は理解してくれた。

新たなことを一つ始めるには、何かを一つやめなくてはならない。僕は20年以上ほぼ休まず飲んできた酒を44歳にして、きっぱりやめた。

遺骨行方不明の要因1「島の様変わり」

硫黄島の遺骨に関する最古の報告書は、1952年のものだ。全部で56ページあった。表紙に書かれた表題「硫黄島の遺骨調査に関する報告」以外はすべて手書きだった。開示されたのは白黒のコピーだったが、原本は相当朽ちているのが分かった。よくぞ今日まで保管してくれたと思った。僕はこの公文書を約70年間、リレーの如く繫いできた旧厚生省、現厚労省の歴代の職員に心から感謝した。

各年度報告書の表紙
各年度報告書の表紙(出所=『硫黄島上陸 友軍ハ地下ニ在リ』)

各年の報告書の文章の多くは、手書きだった。だからなのか、無機的なはずの書類の山からは、歴代の担当者の熱のようなものが伝わってきた。「あなたもよくぞ読んでくれた」。そんな喜びの声が、書類から伝わってくるような気がした。僕は心して一字一句、読み尽くさなければ、と思った。

戦後7年間、米軍の占領下に置かれ、日本本土からの視線が遮断され続けてきた硫黄島。上陸した3人が見たのは、どんな光景だったのか。それは、島内の状況が戦時中とは様変わりし、戦後わずか7年にして〈探査行動及び洞窟の発見を、既に著しく困難にしている〉という実情だった。