インターネットと書籍

だが、Expanded Booksの普及を阻んだ最も大きな要因は、インターネットの登場であったといえる。1991年当時、インターネットはまだ商用化されておらず、パソコン通信の時代だった。このため、今のようにデータをネット上から自由にダウンロードするといったことはできず、あくまでフロッピーディスクやCD-ROMでコンテンツを流通させる必要があった。

このことは、新しいビジネスが結局は既存の流通システムから自由ではないという点では制約だったが、同時に、本というブツの形を留めたままビジネスを可能にするという点で重要な意味があった。Expanded Booksは、よくもわるくも本であり、一つのブツとして、既存のビジネスの上にのることができたのである。

インターネットが普及してしまえば、もはや本というブツにこだわらずとも、ワールドワイドウェブ(www)を通じて必要な情報を手に入れることができる。今では、wikipediaに代表されるデータベースが、本という情報の固まりをばらばらに解体している。ネット上では、本という情報の固まりが固まりとしての意味をなさない。

当時のExpanded Booksが可能にしたマルチメディアの形も、今からみればwwwのプロトタイプのようだった。HyperCardの仕組みにしても、それ自体がインターネットとして無料に公開されてしまった。そして、ビジネスとして誰かがパッケージ化せずとも、wwwでは関連あるコンテンツがほとんど無限に組み合わされるようになっていった。その意味では、Expanded Booksは、最初から自ら本としての可能性を否定していく運命にあったのかもしれない。

1991年を思い返したとき、その後のインターネットの普及が最初の電子書籍の可能性を摘み取っていたのだとしたら、とても興味深い。今日、僕たちが念頭に置く電子書籍なるものは、インターネットとともにあるし、インターネットなくしては考えられないからである。確かに、それはタブレットにインストールされることで機能する。先のKoboにせよKindleにせよ、そうしたタブレットしてはいずれも革新的である。このタブレットというブツは、本というブツをうまく代替するかもしれない。

けれども、その中身となる電子書籍をリアルの店舗で買うという想定は、もはやないはずだ。インターネットが本という形をとった電子書籍を解体していく一方で、今一度、世界はインターネットを用いて、あるいはうまくタブレットを使ってインターネットを制限することで、本という形をつくりあげようとしている。そんな状況が目に浮かぶ。

僕たちは、電子書籍を考える際、そもそも本というブツの形に捉われすぎているのかもしれない。日本を代表するデザイナーである原研哉は、かつて『デザインのデザイン』(岩波書店、2003)の中で、紙でつくられた本の未来について言及していた。本を情報の集積物と考える限り、きっとネットの時代には生き残れないだろう。情報の集積物であれば、ネットに断然と分があるからだ。しかし、本は、情報の集積物ではない。本は、情報の彫刻なのである。紙の質感、重さ、香り、それらの総体としての価値を考えた方がいい。そう考えれば、ネットの時代であろうとなかろうと、本自体は、当然必要な存在として生き残っていくだろうというわけだ。

『デザインのデザイン』
原 研哉/岩波書店/2003年 


 

当時もなるほどと思ったが、今でもあってもその通りだろうと思う。書籍は情報の集積物というよりは、情報の彫刻としてあると考えた方がいい。本という形は物理的な紙の書籍に固有なのであって、それをネット上に移行させたのならば、もはやそれは本ではなくなって当然なのである。それをあえて紙の本と差別化せねばならないと考えるのは、最初のアイデアが転倒しているからという気がする。