阿弥陀寺の清玉上人が信長の遺骨を本能寺から運び出した

事情を知った清玉上人は、近習たちにこう申し出ました。

「方々も知ってのとおり、自分は長年信長どのに懇意にしていただいた。何かの役に立てればと駆け付けたが、もはや果てられたとなれば是非もない。火葬は出家の役なので、この場を任せてもらえるならば遺骨を寺に持ち帰り、手厚く葬ろう」

近習たちに否はありません。彼らは喜んでその場を清玉上人に任せ、敵中に切り込んで討死したということです。

清玉上人は、火葬を終え、骨を集めて衣に包み、脱出する本能寺の僧にまぎれて阿弥陀寺に持ち帰りました。

当然ながら、光秀の軍勢が、寺中を探しても信長の遺体は見つかりません。

それゆえ、「信長の遺骨は見つからなかった」というのが定説となってしまったのです。

その後清玉上人は、二条御所で息子信忠が討死したと聞くと、光秀に申し出て信忠と家臣たちの遺体も引き取りました。

阿弥陀寺は皇室との縁が深く、清玉上人は正親町天皇の勅願僧に任ぜられたほどの高僧なので、光秀も断れなかったと思われます。

信長と信忠の墓は、本堂裏の墓地に仲良く並び、その横には、森蘭丸や近習たちの墓がひっそりと寄り添っていました。

絵師不明「京都本能寺合戦」
絵師不明「京都本能寺合戦」[出典=刀剣ワールド財団(東建コーポレーション株式会社)]

後継者となった秀吉が大徳寺で営んだ「遺骨なき葬儀」

由緒があり、信長の墓所もある阿弥陀寺は、なぜ忘れられた存在になったのでしょうか。

それは、秀吉のためでした。

秀吉は、山崎の合戦で光秀を破り、後継について話し合われた清洲会議で、信長の孫三法師を擁立することに成功しました。

「信長の後継者」であることを世に示そうとした秀吉は、本能寺の変の4カ月後、信長の葬儀を行おうとします。

そこで信長の遺骨がある阿弥陀寺で葬儀をしたいと申し入れますが、清玉上人から頑として拒否されます。秀吉はやむなく、信長の遺品だけを集めて大徳寺で葬儀を行い、総見院を建てて信長の墓所としたのでした。

しかし織田家からは、信長の息子の信雄も信孝も参列していません。

その後秀吉は阿弥陀寺を徹底的に弾圧し、移転を強要。信長の墓所と称することも禁じたのです。

時は流れて大正6年(1917)、信長に正一位が追贈されることになりました。

このとき皇室からの使者は、大徳寺ではなく阿弥陀寺の信長の墓前に参向したのです。

信長の遺骨と墓を守ろうとした阿弥陀寺の苦労が報われ、信長が改めて皇室に認められた瞬間でした。