親の説明はあくまで建前、リクツである

名前から親の心を推理する、などというと、「それなら親に聞けばいいじゃないか」と思う人もいる。でも親の説明というのは、あくまで親が頭で組み立てた理屈である。親自身も気づいていない無意識の世界こそが、本当の親そのものなのである。それを名前から探る際には、親が口で言うことは参考にならない。

世間では、親が立派な説明をできるのが良い名づけだ、と誤解されることも多い。

しかし親が純粋に子の誕生だけを喜んで名前をつけた場合は、あまり説明をしない。聞いてもただ「この名前が好きだった」と言うだけである。好きだということは、説明のしようがないのである。本当はそれが一番正直で安全な名づけなのではないか。

よく学校で、「自分の名前がどのようにつけられたのか親に聞いてきなさい」などと宿題を出す先生もいる。昔、筆者の子もそんな宿題を出されたので、「名前は説明なんかできなくていいんだよ。そのように先生をお導きしなさい」と言っておいた。

筆者の「恭仁雄」の名前から見る家系コンプレックス

名前は親がつけたものであっても、名前からただちに親のことがわかる、というほど簡単なものではない。世の中にはさまざまな親子関係があり、いろいろな名づけがある。ただ多く見られるのが、親が抱えていた感覚、テーマが表現された名前である。

他人の名前ではさしさわりがあるので、私ごとながら筆者の恭仁雄くにおという名前を例にしてご説明したい。京都の恭仁くにという地名をとった名である。

こういう誰にも読めない名前は、人を困らすだけである。社会に恨みでもあったのか? 抱えていたテーマは何なのか?

それを読みとるには、実際の親の生きざまを見ないとならない。

筆者の祖父はヤクザで、ヤクザの子である父親は世間から冷たい目で見られて育った。そのくやしさが儒教道徳をあらわす恭と仁の字を選ばせたと思われる。「俺だって人の道を知ってるんだ」という叫びである。またケンカや事件に囲まれて育った父親は、「何かしでかすんじゃないか」という思いから、道徳の字を入れたくなったのだろう。

祭りに参加する入れ墨の入った人たち
写真=iStock.com/Monique Oliveira
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