これで深く傷つきまして、あとは何をしゃべったのか全然覚えていません。ただ恥をかいただけで、結果、私の得票は40票ほどでビリでした。つまり、6学年全学級のうち、同じクラスの子だけが私の名前を書いてくれた。足元の組織票といいますか、同情票といいますか……。

以来、人前で話すのが大の苦手になって、積極的に人の輪に飛び込んでいくこともしなくなり、極めてシャイな少年期を中学・高校と過ごすことになりました。

偶然目にした松下政経塾のパンフレット

早稲田大学の政経学部政治学科へ進んだのですが、雄弁会(政治家への登竜門として知られる学内弁論クラブ)の面々はまともな集団に見えなかったですね。なんでこんなに人前でしゃべりたがるやつばかりがそろっているんだろうと不思議でしょうがなかった。

政治には関心があったのですが、人前でしゃべることなんてできない。だから彼らとは一線を画すように、当時、ロッキード事件を批判して自民党を離党して河野洋平さんらが結成した新自由クラブという新しい政党の学生ボランティアになって、ポスター貼りやビラ配りなどの裏方の仕事をするようになります。立花隆さんのように、ペンの力で政治を正していくジャーナリズムの世界に進みたいという小さな志も持っていました。

大学4年の時、松下幸之助さんが私財を投じて設立した松下政経塾の第1期生募集というパンフレットを見て、ふと応募したら、塾長である松下さんと直接お目にかかる最終面接まで進んで、なぜか入ることができてしまったんです。そして、当時は5年制だった――現在では4年制です――研修期間中に、さまざまな経験を積むことになりました。

インタビューに応じる野田佳彦氏
撮影=遠藤素子
経験を積むことで無口な自分を変えられるかもしれない。野田氏は就職せず、松下政経塾への入塾を決めた。

もう少し人前で話せるようになりたい

ここに入れば、無口な自分ももう少し人前で話せるようになったりするのではないかという気持ちはありましたが、まさか、毎朝、駅前や街頭に立って活動するようになっていくとは、このときはまだ思いもしませんでしたね。

原体験は薬円台小学校生徒会長選挙での大失敗です。そのトラウマを克服したいという思いがどこかにあったのかもしれません。

ふとしたきっかけから、自分にとっていちばん苦手な世界へチャレンジすることになったということですね。思い切って挑戦してみようと行動したことで何かが大きく変わる。ふとした思いつきで、人生、どうなるかわからないものだと、本当に実感します。

初めての選挙戦、集会に来たのは1人だけだった…

いまでこそ松下政経塾出身の議員は国会にも地方議会にも数多いですが、なにしろ1期生というのは、実績がゼロでOBやOGもいません。だから、卒業後の身の振り方が誰もわからない。

1985年に政経塾を卒業する時、私は27歳でした。いちばん近い選挙がその2年後に統一地方選挙としてありましたので、政経塾を出た以上、一度はチャレンジしないと意味がないと考えて、千葉県議選に無所属で挑戦すると決めたんです。

どこかの企業に就職することもできないまま、働き口を探しては家庭教師や登山ポーターをやったりして、月に10万円稼ぐのってえらく大変だと痛感しながら、選挙活動を始めました。