テレビドラマに影響された「部活」の在り方

「自主性」を大切にしているはずが、なぜ強制的になってしまうのか。それを理解するためには、「制度」「実践」「理念」が与えた影響を考える必要がある。

まず制度が与えた影響とは、1969年・1970年の学習指導要領で設置された「必修クラブ活動」が関係している。部活それ自体は課外活動で、制度的にはあいまいな存在だ。しかし、部活とは別に、授業として「必修クラブ活動」ができた。放課後にある部活の「卓球部」以外に、週1回の「卓球クラブ」の授業が実施されたりした。ところが両者は似ていて、ややこしい。現場は混乱した。

そのため1989年の学習指導要領で、部活に入っていれば必修クラブ活動の授業を履修したと見なしていい、という「部活代替措置」が始まった。すると、多くの学校は、面倒な必修クラブ活動をしなくても済むように、生徒を強制的に部活に入れはじめた。

つまり、必修クラブ活動→部活代替措置→部活強制参加、という流れができてしまった。1998年・1999年の学習指導要領で必修クラブ活動は廃止されたので、厳密に言えばこうした制度的な流れは今は無い。しかし部活を強制参加させる慣例は残ってしまった。

つぎに実践が与えた影響とは、1980年代の校内暴力の時代が関係している。当時、非行生徒や学校の荒れが社会問題になった。この時、教師が部活を通じて生徒と関係をつくり、非行防止や更生を図るという生徒指導的な実践が広がった。テレビドラマ『スクール☆ウォーズ』の世界だ。

教師たちは、負担を抱えながらも部活にかかわり、生徒が学校の外で問題を起こさないように、部活で囲い込もうとした。生徒に部活加入を推奨・強制し、強引に指導者に従わせる管理主義的な部活のあり方ができあがった。

フットボールチームのコーチに耳を傾ける
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いつの間にか「部活には入らないといけない」ように

最後に、もっとも重要なのが、理念が与えた影響だ。戦後民主主義教育の始まりに戻って、そこで教育者たちが悩んでいた「自由と介入」の問題を見直すことにしたい。

戦後民主主義教育は、生徒の自由を尊重しようとした。軍国主義的に上から命令する教育をやめて、生徒がしたいことをする気持ちを大切にしようとした。しかし、生徒を好き勝手に自由放任にしていては、教育は成り立たない。教育とはある種の権力なので、「これはダメ」と生徒の行動を制限したり、「これをしなさい」と生徒に介入したりすることは避けられない。つまり、生徒の自由を尊重しながら、生徒に介入する教育を実現するという難題を教育者は突き付けられた。

この「自由と介入」の問題を解決してくれるように期待されたのが、部活だった。なぜなら、前述の通り、部活には自主性の理念が込められていたからだ。部活は生徒が自ら好んで参加するもので(自由)、同時に、そこで生徒を成長させる教育ができている(介入)、と考えられた。部活は自主的に参加する教育活動なのだから、「自由と介入」の問題が乗り越えられている、と教育者たちは信じたのだ。

しかし本来であれば、部活で生徒が具体的に何をするか、その一つ一つの経験がどんな学びや成長につながっているかが細かく検討されるべきだ。だが、そうしたきめ細かな検討をすることなく、部活をすること=“良い教育”と単純に考えられてしまった。

このロジックに従うと、生徒が部活をしてさえいれば、形式的には、“良い教育”が実現できていることになる。もっと言えば、より多くの生徒が、よりたくさん部活をすればするほど、“より良い教育”が成し遂げられたことになる。

すると、このロジックが逆転して、“良い教育”を実現するために、生徒は部活に入らなくてはならない、と考えられるようになった。生徒が強制参加させられるようになったのだ。