容赦ないデモ隊への弾圧

市民の目覚めは、政府にとって忌避すべきこと。治安部隊は容赦なくデモを弾圧した。

「うちの前でデモをしていたから、本当に残酷な……」

と、そこでサンサンさんは一瞬沈黙した。

「……首が切られたり、血まみれになったり、脳が出てしまった死体を見ました。銃で撃たれた女の子も運ばれていった」

ひと夏で数千人の若者が犠牲になったと言われている。山を越えて外国に逃げた人も少なくない。

「たとえばチンの人たちはインド、カチン人は中国、カレン人やビルマ人はタイ……それぞれが近い国境を越えて亡命しました。逃げた先でもミャンマー人は貧しくて助けてくれる人もいなくて、差別されたり虐待されたり。女の人はなおさらつらい目に遭ったと思います。みんな私と同世代だから、いまはもう50代ですね」

サンサンさんの身にも危険が迫った。

デモに参加したことを察知した警察が家にやってきたのだ。お母さん、下のお兄さん、サンサンさんの3人は別々に連れて行かれた。

「お母さんはデモには行ってないけど、参加者とのつながりを聞かれたんだと思います」

じつはサンサンさんの上のお兄さんは高校時代に活動家となり、行き先も告げずに家を出て密かにカレン人の反政府グループと合流していた。だから警察はサンサンさん一家をマークしていたのかもしれない。

「それに、うちは警察に渡すお金がなかったですからね。賄賂を払えば、たぶん取り調べはやんだと思う」

サンサンさんは刑務所の鉄格子の前に連れて行かれ、夜まで尋問された。そういうことが何度か続いたという。16歳の少女にとって、どれほど心細い時間だっただろう。

「同じ質問を何度もされて。あのときの怖さは忘れられないです」

アウンサウンスーチー氏
写真=iStock.com/lonelytravel
※写真はイメージです(民主化運動の象徴的存在であるアウンサンスーチー氏。スーチー氏が率いる国民民主連盟の選挙2012ポスター)

タイで出稼ぎする姉が出会った日本人

民主化運動は徹底的に潰された。サンサンさん一家も行き詰まっていた。

「そしたら姉が『私、海外に働きに行く』って言ったの」

ミャンマーでビクビクしながら生きるより、海外で出稼ぎをして家計を助けたい。それがお姉さんの決断だった。ブローカーにお金を払って、単身タイへ。ところがこういうときにブローカーが口にする釣り文句はだいたい適当だ。すぐに見つかるはずの仕事はなく、相談に乗ってくれる人もいないまま日が過ぎていった。

「お姉ちゃんは困り果てて、タイから家に電話をかけてきました。そのときお母さんが『帰ってらっしゃい』って言ったのを覚えてる。でもお姉ちゃんは『帰っても地獄だから、もう少しここでがんばる』って」

それが運命の分かれ道だった。

お姉さんはその後しばらくしてひとりの日本人男性と知り合う。旅行でタイに来ていた茨城の人。メロン農家の長男だった。その男性がお姉さんに惚れ込んで、なんと求婚した。

「お姉ちゃんは英語で、本当に結婚したいならミャンマーの実家に挨拶に来てくださいと言ったの。そしたらその方、ヤンゴンのうちまで来てくれました。それでお姉ちゃんは茨城の農家に嫁いだんです」

なんという急展開。そしてそこからサンサンさんの人生も大きく動いていく。何度も警察の取り調べを受けるサンサンさんを心配したお母さんが、「あなたも日本に行きなさい」と言い出したのだ。当時、日本で在留資格をもつお姉さんが保証人になれば、家族を呼び寄せることは割と簡単だった。

「このままミャンマーにいてもなにもできないでしょう。それなら日本で勉強して、仕事を見つけて、お母さんの借金を返したい。そして国が安定したらまた戻ってきてお母さんと暮らすほうがいいと思ったんです」

お母さんの仕事を見て育ったサンサンさんは、いつか自分も医学を学んで、産婦人科医になりたいと密かに思っていた。