かつて日比谷は入り江だった

とはいえ、家康が入城した当時の江戸城は、織田信長や秀吉の手になる豪華絢爛な城を見慣れた目には、かなりお粗末に映ったに違いない。また、その中枢部は武蔵野台地の東端の高台にあり、そのすぐ東側には、日比谷入江という大きな入江が深く入り込んでいた。

なにしろ、新橋あたりから大手町方面までが大きな入江で、城域を拡大するためにも、城下町を整備するためにも、この入江が邪魔になる。そこで、家康がまず手がけたのは、この入江を埋め立てることだった。入江に流れ込んでいた平川の流路を変えて、東京湾に直接流れ出るようにしたうえで、神田山を削るなどした土で埋め立てたのだ。

現在の日比谷公園はかつての入江のど真ん中で、パレスホテル東京の前まで続く日比谷堀は、かつての入江の埋め残しだと考えられている。

とはいえ、江戸に入府してしばらくのあいだ、家康は豊臣政権下の一大名にすぎなかったので、謀反などのあらぬ嫌疑をかけられないように、江戸城の整備は最小限にとどめていた。

余計な心配をせずに、思う存分整備できるようになったのは、慶長5年(1600)に関ヶ原の戦いに勝ち、同8年(1603)に征夷大将軍に任ぜられてからで、早速、翌年には大規模な工事がはじまった。

家康のグランドデザイン

工事はいわゆる天下普請(御手伝い普請)で行われた。早い話が、諸大名を動員し、彼らの負担で工事を行わせたのだ。武士には主君に領土を守ってもらう代わりに軍事面で主君を支える、軍役と呼ばれる義務があった。天下普請も軍役の一種で、武家の棟梁となった家康から命ぜられれば、大名は受けるしかなかったのだ。

慶長9年(1604)の第一次天下普請は西国の29の大名に命ぜられ、本丸、二の丸、三の丸、いま日本武道館がある北の丸のほか、溜池から雉子橋までの外郭が築かれた。

慶長19年(1614)年の第二次天下普請では、本丸から三の丸にかけての石垣が大規模に整備されて、ほぼいま見られる姿になった。また、皇居の中心である西の丸を囲む堀が拡張され、現在、皇居外苑となっている西の丸下の石垣も整備された。半蔵門から外桜田門に続き、現在も美しい幅100メートルを超える堀も、このときに整えられた。

家康が存命中の工事はここまでだが、家康のグランドデザインをもとに、大規模な天下普請は3代将軍・家光時代の寛永13年(1636)の第五次まで続けられ、江戸城全体はひとまずの完成を見た。

その間、動員された大名は延べ471家を数え、もっとも大規模だった第五次天下普請には西国大名61家、東国大名54家が携わった。主に石積みの経験が豊富な西国の大名が石垣を築き、東国の大名が堀を掘った。

こうして幕府は、諸大名がもつ築城技術をフルにいかして堅固な城を築くと同時に、大名たちを経済的に疲弊させて謀反を起こす力をそぎ、徳川家の力を相対的に高めていくことに成功したのである。