苦しい経験を経てきた人の難しさ

いや、思っているというのは正確ではない。野良猫があなたの目の前で寝ているところを思い浮かべて欲しい。あなたがわずかでも近づけば、猫は飛び起きる。飼い猫とは違って、野良猫は熟睡することがない。つねに世界に対して警戒を怠らない野良猫は、寿命も短い。世界のすべてが敵であるという、いっときの安心も許されない、常時緊張を強いられる生活。

新宿歌舞伎町
写真=iStock.com/B_Lucava
※写真はイメージです

そんな生活を何十年も続けていれば、すっかり消耗してしまう。疲れ果て、「もう生きていられない」と感じた人が、この孤立状態からなんとか抜け出したい、牧師ならなにか教えてくれるかもしれないと、わたしのもとへやってくるのである。

だが、そもそもその人は、誰かから無条件に愛されたり、誰かを無条件に信頼したりした経験がない。わたしを信用しようとしても、信用とはなにかが、分からない。

そういう人のなかには──すべての人がそうだというのでは決してない──わたしに高い理想を見いだし、わたしを絶賛し、頻繁に連絡してくるなど、急激に距離を詰めてくる人もいる。ところが、わたしがその人の理想像に反した言動をするや一転、わたしを激しく憎み、罵るようになってしまうのだ。なかには「沼田牧師に傷つけられた!」とふれてまわったりする人もいる。

牧師でさえも怒りに駆られてしまうとき

そんな人と向きあったとき、わたしもまた怒りに駆られてしまう──勝手にそっちから来ておいてなんだその態度は。昼夜かまわずさんざん話につきあって、感謝されるならまだしも、なんでこんなに憎まれなきゃならないんだ。そんなことだからあなたは、けっきょく誰のところに行ってもまともに相手にされないんだよ──そこまで毒づいて、はっと気づく。これこそ「かわいそうランキング」そのものではないか。

同じように相談に来た人がとても礼儀正しくて、なんだったら「些少ですが献げさせてください」とばかりに高額な献金までしてくれて……じっさい、そういう人もおられたのだが、その人を相手にしたときのわたしの態度はどうだった? 向きあうわたしの表情も声色も、ぜんぜん違うよね?