ドゥテルテ政権下の麻薬戦争を、比喩でなく、平和を築くための戦争そのものだったと考えれば、圧倒的多数のフィリピン人がこれを支持した理由は腑に落ちるように思えるのだ。

父親は「麻薬戦争」で警察官に殺された

再び、マニラ市のスラム地区トンドに戻る。

警察に殺されたエミール・マルコス(覚醒剤所持で警察に連行・殺害された)の娘キンバリーは、親類の中で唯一、やや余裕のある祖母の支援を受けてなんとか日々の暮らしをつないでいる。

まだ、20歳ながら、彼女には既に4人の子どもがいた。最近のフィリピンでは、10代前半から半ばで妊娠、出産する女性が急増、早すぎる出産は社会問題化しており、キンバリーもその一人だった。

マニラのスラム街
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マルコスの一家は父の死をめぐって警察はもちろん、政府機関からも一銭の賠償金も受け取っていない。

その背景には、フィリピン憲法の欠陥ともいえる問題もあった。

アキノ政変後に制定された1987年憲法には、民主主義や人権擁護、環境保護や少数民族の権利など先進的な条項も多々盛り込まれているが、国家賠償に関する規定がなく、国民による国家賠償訴訟が認められていないのだ。

フィリピン憲法第16条3項にはさらりとこう書かれている。

「国は国の同意なしに訴訟を起こされることはない」

国民が国家の行為によって生命、健康、財産などの被害を受けても、日本など先進国では一般的に認められている国家賠償訴訟が起こせないのだ。この条項があることだけで、憲法に謳われている民主主義や人権擁護などの条項すべてが疑わしきものにさえ思えてくる。

国家賠償訴訟が起こせない憲法の欠陥

個人だけでなく企業など法人が政府と結んだ契約などをめぐって争いが生じても、企業はフィリピン政府を相手取った訴訟ができないことになっている。

このような国家賠償訴訟を禁じる法理は、20世紀半ばまで英国で残っていた「国王は悪をなしえず」というコモン・ローの法理に基づくとみられる。米国もこの法理を継承していたが、米国は1946年、英国は1947年に法改正がなされ、国家賠償訴訟が認められるようになった。

しかし、米国法の流れを汲むフィリピンではいまだにこの法理が残ったままで、アキノ政変による民主化の過程でも見逃されたまま継承された。

エミール・マルコスのケースなど、他の国では有能な弁護士が国を提訴、公正な裁判官が判決を下せば、民事賠償が得られるはずだが、フィリピンではそれができない。

警察官個人を訴えることはできる。しかし、末端警察官を訴えても、賠償能力がない場合が多く、国家の行為によって損害を被った者は泣き寝入りするしかないのだ。

国民に根強い麻薬常用者への怒り

エミール・マルコスの家を訪ねた後、長年の知人のドリー・リカフレンテの家に戻って、一家の様子を報告した。

しかし、ドゥテルテの熱烈な支持者であるドリーは、殺されたエミール・マルコスについてはほとんど同情は示さなかった。