「性急な人」と「弱い人」をつなぐもの

アリストテレスの議論にはいくつかの解釈がある。ここでは、私の腑に落ちた解釈を示しておこう。それは「性急な人」と「弱い人」という、自制心の無い人の内訳を念頭に置くものである(第7巻第7章)。

例えば、健康に悪いものは食べるべきではない、という大前提を有する人の前に、健康に悪いが美味しい食品(ファストフードや甘い菓子等)が置かれたとする。そのとき、欲望に従って性急に行動し、葛藤せずにそれを食べてしまうのが「性急な人」である。そして、食べるか否かの葛藤の中で欲望に負け、「目の前にある食品は健康に悪い」という小前提に意識を向けられなくなることで、結果的に食べてしまうのが「弱い人」だ。

この二人はともに、健康に悪いものはどれも食べるべきではない、という大前提を理解している。しかし、葛藤の有無の違いこそあれ、どちらも欲望のために意識を「これは健康に悪い」という小前提に向けられなくなり、「分かっている」ことを「できなくなる」のだ。つまり、自制心の無い人とは、欲望によって理性を弱められている人だということになる。

「習慣とは長い時間をかけた練習」である

誤解の無いように言えば、アリストテレスのいう「自制心の無い人」、つまり「性急な人」と「弱い人」とは、普段は「でき」、時折「できない」といった程度のムラのある人のことではない。その程度のことは誰にでもある。アリストテレスが「自制心の無い人」というときに念頭に置いているのは、ある種の習慣によって、アクラシアを性格にまでしてしまった人のことである。第7巻第10章で、アリストテレスはこう言っている。

友よ、言っておくぞ。習慣とは長い時間をかけた練習であり、そしてまさに、この練習が終には人の自然本性となるのだ。

アリストテレスに即せば、私たちはその悪しき習慣こそ、どうにかしなければいけないのである。しかし、これには希望がある。アリストテレスもこう言っている。

習慣によって自制心を無くした人の方が、生まれついた自然的性質によって自制心を持たない人よりも癒しやすい。なぜなら、生まれついた自然を変えることよりも、習慣を変えることの方が容易だからである。

筆者が上梓した『データ管理は私たちを幸福にするか? 自己追跡(セルフトラッキング)の倫理学』の主題はまさにこの点にある。セルフトラッキングが、悪しき習慣の改善に貢献するか否か、それを見定めようというのが本書の目的だ。そうしてみると、アクラシアとは「新しくて古い問題」といえるかもしれない。

現代社会は、理性による自制を困難にする欲望がそこかしこにあり、また、悪しき習慣が定着しやすい環境も揃っている。しかし、問題の根本は古代と何ら変わりがないのである。