いまの子どもたちは、集団になるとそれぞれを定型的な「キャラクター」に置き換えることが多い。神戸女学院大学名誉教授の内田樹さんは「中高一貫校の場合、一番多感で変化する時期に、6年間も同じキャラを演じ続けないといけない。本人も親も教師も気づかないうちに子どもの成熟が邪魔されてしまう恐れがある」という――。

※本稿は、内田樹『複雑化の教育論』(東洋館出版社)の一部を再編集したものです。

学生服を着た高校生
写真=iStock.com/taka4332
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自分の居場所を保証する「キャラ設定」

いまの子どもたちは学校で集団の中に置かれると、まず「キャラ設定」をされます。いくつかの定型的なキャラクターがあって、それをあてがわれる。ジャイアンとかスネ夫とかのび太とかいうわかりやすい便宜的な「ラベル」を貼られる。仮に納得のゆかないラベルであっても、それを受け入れれば、とりあえず集団内部では自分の居場所が保証され、拒否すれば居場所がなくなる。

でも、このキャラ設定の怖いところは、一度それを受け入れると、もうそこから出られなくなるということです。この傾向は、時代が下るにつれて、しだいに強化されてきているような気がします。

3年くらい前に、ある大学新聞の記者という男子学生2人が取材に来たことがありました。教育に関して話を聞きたいということでした。話しているうちに「いまの学校教育がうまくゆかなくなった理由は何だと思いますか?」と質問されて、「一つは中高一貫教育ですね」と僕が答えました。特に男子の中高一貫教育がいけないって。

すると、2人ともちょっとびっくりした。2人とも男子中高一貫校の出身だったからです。「どうしてダメなんですか?」と訊くので、12歳から18歳まで一緒にいるというのは無理があると思うって答えました。

中高一貫校の生徒の会話が猛スピードなワケ

その頃って、一番大きく変化する時期ですよね。でも、小学校を出たばかりの子どもが入学して、何となく同級生と顔見知りになって、グループができると、そこでキャラ設定されてしまう。

坊っちゃん』には狸、赤シャツ、野だいこ、うらなり、山嵐、坊っちゃんと六類型が出てきますけれど、漱石の作家的想像力を以てしてもせいぜいそれくらいなんです。片手で数えられるくらいの定型しかない。その一つをラベルとして貼られる。そして、「あだ名」を付けられる。小学校を出たばかりですから、とりあえず仲間に入れてもらえるなら、自分らしくないキャラ設定をされても、誰も文句は言いません。