時代の変化を示す「馬出から枡形門」への移行

徳川家康段階の江戸城本丸・西の丸に馬出(城の門の前面にある堀に囲まれた空間)があった。しかし、豊臣期という時代を象徴する施設である馬出は、「慶長江戸図」の段階以後に江戸城では消滅している。整備されたあとの江戸城の登城路で馬出は採用されていない。代わりに、次第に規格化された枡形門が採用され、城内各所に配置された。

徳川家が好んだ枡形門とは、高麗門こうらいもん櫓門やぐらもんをセットにし、両者を城壁で連結させ、内部に平坦な四角空間をつくるという形式である(図版3)。ポイントは方形の区画の二辺に配置された櫓門と高麗門である。一般に枡形門は、ひと折れで方形を意識しつつ櫓門だけを構える形式が多いが、徳川家の枡形門は高麗門と櫓門の二つの門を連結している。この形式は江戸城だけでなく、大坂城・名古屋城など、徳川家が関係した城館を中心に広がっていった。

【図版3】大手門
著者撮影
【図版3】大手門(枡形門)

馬出が消え、枡形門という新しい形式の門が採用された。とかく門は家の顔として重要視され、城の設計と同じく、城主の権威を表す。門に独自の設計を採用するということは一つの表現である。また、豊臣期では馬出が権威の象徴であったものの、枡形門がこれに取って代わった。馬出から枡形門への移行は、時代の変化を如実に示しているであろう。

権力者の交代を告げる石垣の変更

このように、城は権威を示す場であった。権力者の交代を告げるしるしは城内の随所で見られた。その多くは障壁画、金具など建物に関係するものである。そして外観の石垣もそうである。

齋藤慎一『江戸 平安時代から家康の建設へ』(中公新書)
齋藤慎一『江戸 平安時代から家康の建設へ』(中公新書)

家康の命令による慶長11年(1606)の普請のときの石垣は、伊豆半島付近の安山岩が使用されていた。石材の色調は灰色で白や黒の斑点模様があり、できあがった江戸城の石垣は全体として黒っぽい印象があった。そして組みあがった石材の形状じたい、一つ一つが整ったものではなく、実にさまざまな形を呈していた。

それが、石材にも変化が起きた。江戸城でも白御影石が使用されるようになったのである。ただし調達に問題を残したのか、大坂城や二条城のように白御影石は全面的にではなく、必要な場所だけに使用された。例えば、登城路の中雀門や中ノ門、算木積みの隅石、そして明暦の大火後に再建された天守台である。これらはいずれも目立つ場所であり、まさに権威を示す場所といってよい。それまでの不整形ではなく、白御影石の石垣は石材一つ一つが四角を意識して整形されている。

黒から白へ、不整形から整形へ、見た目の清浄感を生む石垣は、まさに征夷大将軍の権威をより高める装置と言える。時代は変わり、石垣も変わった。

【関連記事】
「大量の日本人女性を、奴隷として本国に持ち帰る」豊臣秀吉がキリスト教追放を決意したワケ
「江戸出張はあまりにブラックだった」大名の参勤交代で部下たちが運んだ"ヤバい荷物"
「1185年でも1192年でもない」源頼朝をトップとする鎌倉幕府が成立した本当のタイミング
「NHK大河ドラマでは描きづらい」渋沢栄一の激しすぎる"女遊び"の自業自得
明治政府を支配できたはずなのに…最後の将軍・徳川慶喜の"痛すぎるしくじり"