なぜ徳川慶喜は260年続いた江戸幕府の政権を朝廷に返したのか。歴史研究家の河合敦さんは「薩長が倒幕の準備を進めていたことに加え、自分が新政府の盟主になれるはずだと考えていたからだろう。ところが、判断ミスが続き、人生は暗転した」という――。(第3回)

※本稿は、河合敦『偉人しくじり図鑑 25の英傑たちに学ぶ「死ぬほど痛い」かすり傷』(秀和システム)の一部を再編集したものです。

幼少期から期待されていた慶喜

江戸幕府最後の将軍・徳川慶喜は、水戸藩主・徳川斉昭の子として生まれ、一橋家(徳川御三卿の一)の家督を継いだ。幼少より聡明だったので、斉昭もその将来に大いに期待を寄せ、ことのほかかわいがった。

やがて病弱な13代将軍・家定に子が生まれる可能性のないことがわかると、斉昭をはじめ開明的な雄藩の大名たちは、その後嗣に慶喜を強く推した。ところが、大老の井伊直弼が紀州藩主・徳川慶福よしとみ(家茂)をその座にすえ、反発した一橋派の大名を弾圧(安政の大獄)、慶喜も数年間の逼塞ひっそくを余儀なくされた。

しかし文久2年(1862)に復権して、14代将軍・家茂の将軍後見職となり、政局の中心である京都で目覚ましい活躍を見せると、元治元年(1864)に孝明天皇の信頼を得て、朝廷の禁裏守衛総督に任命された。

慶喜は、会津藩主・松平容保らと結んで、京都で政治権力を持つようになり、慶応2年(1866)夏、第2次長州征討の最中に家茂が病死すると、これにかわって15代将軍になった。だが、長州征討で幕府軍が長州藩に敗北したことにより、倒幕の流れは一気に加速する。すると慶喜は、土佐藩の献策を受け入れ、慶応3年(1867)10月、朝廷に政権を返上(大政奉還)したのである。

それにしてもなぜ慶喜は、260年続いた江戸幕府の政権を朝廷に禅譲したのか。