ディズニーランドをつくったウォルト・ディズニーは、スタッフ集めにあたって「遊園地の関係者は雇いたくない」と話していたという。なぜ素人だけで計画を進めようとしていたのか。歴史小説家リチャード・スノーの『ディズニーランド 世界最強のエンターテインメントが生まれるまで』(ハーパーコリンズ・ジャパン)から一部を紹介する——。
ハリウッド・ウォーク・オブ・フェイムにあるウォルト・ディズニーの星
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土地探しより苦労した実現可能性の調査

計画段階とはいえ、ディズニーランドは土地の買収も完了し、資金も集まった。ウォルトは、スタッフにディズニーランドのことを発表すべき時がきたと思った。

もちろん、すでに噂は飛び交っており、何かが起きていることはみなわかっていた。だが、ウォルトは寝ても覚めてもディズニーランドのことで頭がいっぱいだったわりに、そのことを打ち明けたのはごくわずかのスタッフに限られていた。おそらく、スタジオ内で知っていたのは20人にも満たなかっただろう。

ウォルトは、この計画が容易に受け入れられるとは思っていなかった。スタンフォード研究所(SRI)エコノミスト、バズ・プライスはSRIに託された次なる調査に取り組んでいたが、これといって役に立つような情報を集められずにいた。ディズニーランドの土地を探していたときよりも、プライスは苦労していた。

「ふたつ目の任務は(1953年秋の時点でもまだ)ディズニーランドの実現可能性を調査し、工程表か計画マニュアルの形で提出することだったが、それは雲をつかむような話だった。比較できるモデルがほとんどなかったからだ」

一番の比較対象は遊園地ではなく動物園だった

そこで、モデル探しをすることになった。美術担当のハーパー・ゴフはこう語っている。「妻とふたり、アメリカ中を何千キロも旅して、情報を集めて回った。男性用トイレと女性用トイレの比率は、とか……窃盗はどの程度起こるのか? 車で来園する客の人数は? 駐車場の大きさは? といったことを」

チカチカと光る照明に一瞬浮かびあがる楽しげな(あるいは恐ろしげな)セットを横目に、電気仕掛けの乗り物が、曲がりくねったレールをガタガタと進んでいく。そんなダーク・ライドに乗って、所要時間を計ったりもした。パイク(ロングビーチの娯楽施設)の「ハネムーン・トレイル」は1分38秒間隔でゲートを通過し、「ラフ・イン・ザ・ダーク」は乗客に1分34秒の「恐怖の笑い」を提供していた。

バズ・プライスは、最も有益な情報が収集できるのは、遊園地ではなくサンディエゴ動物園だと信じていた。「比較対象としても、市場の浸透度や入場者数、季節変動の予測に利用するにも、優れた実例だった」ディズニーランドもその予定だったが、サンディエゴ動物園は通年営業しており、「経済成果も分析でき、ディズニーランドのモデルになり得る」と考えたのだ。

また南カリフォルニアで一番人気の観光スポットだったフォレストローン・メモリアルパークは、ディズニーランドは緑あふれる場所であるべきだというウォルト・ディズニーの信条を裏づけるのに役立った。