「毒親」に育てられた経験にどう向き合えばいいのか。文筆家の古谷経衡氏は「私は虐待のトラウマで『自分のような人間は家庭を築けない』と思い込んでいたが、授かり婚で子供を持った。親を反面教師にすれば幸せな家庭を築くことはできる。それはアニメ映画『シン・エヴァンゲリオン』にも通じる」という――。
©カラー/エヴァンゲリオン公式Twitterアカウントより
©カラー/エヴァンゲリオン公式Twitterアカウントより

シン・エヴァでは「精神的な父殺し」が見事に描かれた

実のところエヴァンゲリオン(以下、「エヴァ」)の主要なテーマの一つはエディプスコンプレックスである。エディプスコンプレックスとはごく平易に言えば精神的な父殺しである。子が同性尊属である父に敵愾心を抱き、父をいかに乗り越えるのか。思春期の男子にはよく見られる心理的葛藤で、フロイトが提唱した。

現在公開中のアニメ映画『シン・エヴァンゲリオン』(総監督:庵野秀明)は、本作の主軸の一つである主人公の持つエディプスコンプレックスがいかに昇華されるのかが見事に描かれている。これは決してネタバレではない。1995年10月にエヴァのテレビ本放送(全26話)が開始されて26年目にして完結したエヴァは、当初から子と父、あるいは父と子の関係性が物語構成の枢機に横たわっている。

主人公・碇シンジの実父である碇ゲンドウは、現在で言えば完全に「毒親」と呼ばれて仕方あるまいが、より正確に言うならば彼はシンジをネグレクトし続けてきた。実子にもかかわらず養育権を放棄しているのである。ではシンジの養育は誰に任せたのかというと、貞本義行氏の漫画版とテレビ版では表現は違うものの「親類ないしはそれに近しい存在」に託されていたようである。ちなみにこの「親類ないしはそれに近しい存在」は95年のテレビ版では映像として一切登場しない。

繰り返すようにこれはネタバレではないが、シンジの母親、つまり碇ゲンドウの妻(碇ユイ)は、テレビ版当時すでに「“書類上”故人」として扱われている。普通、妻が早世したなら長子の養育権は実父が保有するはすだが、碇ゲンドウはその義務を怠り、シンジを「親類ないしはそれに近しい存在」に放り投げて、ある日突然にしてシンジをネルフ本部に呼び出し、「エヴァに乗れ」と命令するのである。

エヴァのテレビ版第一話はこのようにして始まるのであるが、社会通念上の常識として何年も顔すら見せたことのない父親に呼び出され、いきなり軍事兵器(汎用人型決戦兵器)に乗れと命令する時点で、殆どこれは虐待の範疇に入っている。当然そんな理不尽な命令にシンジが従う理由など一切ないのであるが、彼は14歳なので民主的自意識を持たなかったのだろう。そしてこの命令を拒否する展開であると物語が進まないので、仕方なくエヴァのパイロットになるのである。

碇ゲンドウはいわゆる「毒親」である

これは『機動戦士ガンダム(1st)』において父親(テム・レイ)が開発したMS(モビルスーツ)ガンダムに、主人公のアムロ・レイが“一応”マニュアルめいたものを読みながら「ほぼ能動的」に乗り込んだのとはかなり対照的である。アムロは技術屋で家庭を軽んじがちな父親とはおおむね疎遠関係ではあるが、特段にネグレクトされていたわけでは無かった。

しかし続く『機動戦士ガンダムZ』の主人公、カミーユ・ビダンは父が不倫をして家庭を完全に蔑ろにしており、カミーユは不可抗力とはいえ父親を間接的に殺害する。どうもロボットSFアニメには、常に“エディプスコンプレックスの超克”という大きな主題が横たわっているのかもしれない。あるいはそれは富野由悠季氏の作風なのであろうか。

話をガンダムからエヴァに戻すが、この子と父、あるいは父と子の関係性は今次『シン・エヴァンゲリオン』において明瞭に完結されている。未見の読者に於かれては急いで劇場に行かれることをオススメしたい。

さて、1995年10月に放送開始となったエヴァの時代、前出したように「毒親」という概念も言葉もなかった。当時エヴァのテレビ版を見た視聴者(私もその一人である)は、シンジの実父である碇ゲンドウを「権威主義的で実子に対し冷淡極まりない存在」として認識したであろう。しかしエヴァ完結から振り返ってようよう26年目にして、「権威主義的で実子に対し冷淡極まりない存在」には名前がついている。それすなわち「毒親」である。