「政党化」する大手政治部記者の思考回路

他方、政治家もすべては選挙中心の行動原理で動くから、メディアへの露出度をアップするために、メディアが設定した論点や論調にあわせて、自己の主張を立論する。私も、大手政治部の記者と話していて「○○という言い方をしてくれれば記事に書けるんだけど」と言われることがある。

あるいは、憲法改正の議論についても、「安倍総理の自衛隊明記案」「自民党改正草案」など政党として打ち出した案は項目に出されるが、議員各人の提案は、その政策的価値とは全く無関係に「党として出してないから書けない」と紙面から外される。

このことはつまり、大手政局メディアが、選挙や政党の構造とその思考回路を完全に一致させており、その枠を超えたオリジナルで価値ある発信はほとんどなされないことを示している。これほどまでに、政治メディアと政党はぴったりと表裏一体なのだ。

1970年代以降の政党衰退は、マスコミュニケーションの発達によって、政治的な争点形成機能を果たすプレーヤーが広がったこともその一因だった。このときマスメディアは、社会的な役割として、独自に市民が議論し熟考するための争点形成機能を果たしていく役割を担っていたはずだったのだ。

しかし、我が国では、むしろマスメディア自身が番記者を通じた政党の広報機関の地位に甘んじた結果、政党の衰退とともに、政治問題を政局や政党の利害を超えて提示できる機能も社会から失われたのだ。

「ミンシュシュギ」への絶望を「力」に変える

こうしてみると、選挙と政党、そしてメディアを中心とした「政治的なるもの」たちの生態系は、ビジネスとして高度に自己完結しており、政局を「飯のタネ」として「食っていく」ためには余裕の自給率100%状態なのである。この自給率100%の生態系のことを、我々は民主主義だと思い込んでいる。これはハリボテの「ミンシュシュギ」にすぎない。

我々は国会議員やマスコミを、適切に「信頼できない」と断じているではないか。この「不信」をミンシュシュギへの無関心と絶望で費やさずに、フレッシュな民主主義のためのパワーに統合しようではないか。これがカウンター・デモクラシーだ。

「カウンター・デモクラシー」とは、フランスの政治学者ピエール・ロザンヴァロンが提唱したとされる、既存の選挙代議制民主主義への「対抗的」な民主主義のあり方である。民主主義への「不信」を適切に組織し、具体例としてデモや国民投票が挙げられることが多いが、必ずしもそれらに限られない。