「士官になれる」と思って入ったのに……

【大木】それは大きな問題でした。われわれ戦後生まれの者まで、甲乙丙のことで悩まされました。雑誌『歴史と人物』(中央公論社)で予科練特集をしたときに、昭和末ぐらいでもなお、予科練出身者の甲乙丙に対するわだかまりに注意しないといけなかったのです。横山編集長もずいぶんと気を遣い、予科練出身者の座談会をしたときには、人数的に甲乙丙がぴったり一緒になるようにしたものです。特乙、一名。乙、一名、丙飛、一名……などと数を揃え、学校での期もばらけるようにしました。

【戸髙】そんなところで気を遣わなければいけないのも、おかしな話です。海軍がもっときれいに一本化した制度をつくっていたら、全員がもっと力を発揮できたことでしょう。軍というものは、戦闘能力や人数だけで力を発揮するのではないということを、海軍は特に見落としていたと思います。もっと気持ち良く教育を受けられる環境を与えなければいけませんでした。

【大木】甲飛は海軍兵学校に相当する、と思われていましたね。

【戸髙】甲飛の生徒は、自分は将校生徒だと思っていました。

【大木】ところが、いざ学校に行ってみると、士官になれるわけではないため、「騙された」と感じた、という話をよく聞きました。原稿をもらった方や話を聞いた方から、「これが本当の海軍ダマシ(「海軍魂」と掛けた言葉)だ」と言われたものです。

【戸髙】戦争末期になると、飛行機にも乗れず、防空壕ばかり掘っていたので「ドカレン(「土方」と掛けた言葉)」とも言われました。制度の中に、日本が崩壊していく様子が現れていた。

「戦艦1隻で飛行機が3000機つくれる」論

【大木】余談になりますが、私の大学に「ドカレン」出身の先生がおられて、必ず一五分講義に遅れてくる人でした。ところが何となく、他の先生も事務の人も彼を許しているところがありました。それは「あの人は予科練で分刻み、秒刻みの生活をしていたことへの反発でこうなったのだ」と言われていたからです。

【戸髙】それはどうでしょうか(笑)。確かに厳しい管理はされていたでしょうが。私など、周りがみな元海軍の人だったので、時間にはうるさく躾けられました。

【大木】このような話もよく聞きました。予科練も最初のころ、空への憧れがみなさん大きかったようです。昭和四(一九二九)年に土浦へ来たドイツの飛行船「ツェッペリン」を見て、空に憧れたということを、多くの方がいいます。