「ガラス立社」へベクトルを一つに

そんなにうまくいくとは思っていなかったが、効果はすぐに出た。製造ひと筋、開発ひと筋の人間が、別世界へ行って、自力では何もできない。毎日、ミーティングを開き、メンバーから何をやるべきかを聞き、古巣へと知らせる。自然、2つのグループは、1つになっていく。

「一手獨拍、雖疾無聲」(一手獨り拍てば、疾しと雖も聲なし)――中国の古典『韓非子』にある言葉で、片手で打っていたのでは、いくら早く打っても音は出ないとの意味だ。どんなことも、相応じるものがなければ成り立たない、1人でわかった気になっていても、人々がついてこなければ、何も成果は生まない、と説く。ベクトル合わせに力を注ぐ石村流は、この教えと重なる。

改善活動を始め、開発と製造の融合を進めて1年、宿願の黒字へ転じた。社長を4年務め、米沢を去るとき、法人税の納税額が県内で2位になっていた。着任したときは「この会社が生き残るために、何をすべきか。800人の従業員の将来を守ることを、考えなければいけない」と思い詰めていた。でも、米沢は全員への方針説明、感想文のチェック、現場で話を聞いて回るには、いい規模だった。浸透ぶりも、みやすい。「こんなことをやってみたら、どうなるのか?」と、いろいろ試してみることができて、楽しかった。

08年3月に社長になり、上期は過去最高の利益が出た。だが、9月に起きたリーマンショックで、ガラスの需要はがた減りとなる。翌月、グループ全体に「非常事態宣言」を出し、生産効率を徹底的に上げるプロジェクトに着手する。手元資金の確保に、棚卸し資産も絞り込む。

年末、社員に「来年をひとことで言うと、何という字になりますか」と尋ねられた。ふと、「忍」という字が口から出た。リーマンショックの打撃からの立て直しには、時間がかかると思っていたからだ。ところが、その夕にあった懇親会で、同じ社員が近づいてきて「社長たる者、忍とは何ですか。もっと、ポジティブなものにすべきだ」と言った。ちょっと酔っていたようで、その勢いで言ったのかもしれないが、考えさせられた。「ちょっと待て。思いついたのが『忍』だったけど、1月までに何か考えてくる」と答えた。

新年を迎え、「蓄」という字を打ち出す。後ろ向きの気持ちで終わらず、「力を蓄えよう」との趣旨だ。その09年、厳しいとみていた業績が、ある程度まで回復した。「蓄」に、グループ内のベクトルが合わさったのだろう。やはり「一手獨拍」では、そうはいかない。

2010年の冒頭は、その「蓄」を活かそうという意味で、「活」の文字を選ぶ。無論、復活の「活」でもある。すると、収益が過去最高の水準まで戻った。今年は「次は前へ進もう」と呼びかける意味で「進」を掲げた。足踏みさせられていた成長戦略へ、いよいよ踏み出す。東日本大震災という、予想もしなかった事態になったが、日本復活の戦線に加わるには、成長が不可欠だ。

地上波テレビのデジタル化や、エコポイントの後押しで伸びていた薄型テレビ向け需要は、一段落した。次に注力すべき事業分野が、まず2つある。急速に普及が進むスマートフォンのタッチパネル向けに、おしゃれな意匠を凝らし、指紋などがつきにくいカバーガラスを提供していく。もう一つは、太陽電池用に表面に反射防止の加工をしたガラスや、裏側のシールに使う特殊なフィルムを、軌道に乗せたい。

勝負は、「ガラス立社」だ。あくまで、ガラスの分野で、力を高めていく。それには、これからも「一手獨拍」になってはいけない。ベクトル合わせの、気は抜かない。

(聞き手=街風隆雄 撮影=門間新弥)