天皇も「おかげさま」を拝む

——となると伊勢神宮は……。

「全国のお願い事は各地の神社を通じて伊勢神宮に集まるわけです。それで願いが叶った時に伊勢神宮にお参りする。おかげさまで願いが叶いました、と感謝を伝えるんです。いってみれば『御礼参り』ですね」

かつて「私幣禁断」という決まりがあったように、内宮は祈願の場所ではない。お願いではなく感謝する。ちなみに天照大御神は皇室の先祖とされるが、先述の櫻井勝之進さんはこう記していた。

天皇さまはご自分の権威というもの、神という資格というものは自分ひとりで得たものではない。これは先祖代々のお蔭である、というので、その大元を大御神と申し上げるわけです。(櫻井勝之進著『神道を学びなおす』神社新報社 2005年)

天皇が天皇であるのは「尊い始源があってのお蔭」。天皇も「おかげさま」を拝むくらいで、私たち日本人は「おかげさま」のおかげで生きているのだ。

おかげさまでここまで来れました。

そうつぶやいて内宮の鳥居で一礼。そして「俗界と聖界との境」(『お伊勢まいり』神宮司庁編 伊勢神宮崇敬会 2017年)とされる宇治橋を渡る。眼下にはゆったり流れる五十鈴川。外宮と違ってこちらはとても開放的な空気だ。

橋を渡ると広大な庭園(神苑)。芝生が広がり、随所に這い松。天照大御神は「日神ひのかみ」(『日本書紀』)とも呼ばれており、それゆえ太陽光もまぶしいのだろうか。

睡魔に襲われ、立ち止まる

神苑を抜けて参道を進み、五十鈴川の御手洗場へ。川の水をすくって手を洗い、口をすすぐ。こうすると「神気がおのずから身の内に満ちてくるようなすがすがしさを覚える」(前出『お伊勢まいり』)とのことだったが、私は川底に沈んでいるたくさんの1円玉に目を奪われた。おそらくここで賽銭をする人が多いのだろう。

内宮は参道も広かった。広さに圧迫されるようで、歩いてもなかなか前に進まないような気がする。人々に次々と抜かれ、じわじわと睡魔にも襲われ、しまいに私は立ち止まった。

おかげさまか……。

太陽、そして植物のおかげで私は生きている。さらにはご先祖様、両親、親戚のおじさん、おばさん、妻、友人、知人、その他、縁のある人々……。おかげさまを考え始めると、とりとめがなく、感謝するなら直接本人に伝えるべきではないか。進まない足取りが思考を導くようで、この先で一括して感謝するのは横着ではないか、という疑念さえ浮かんできたのである。

ゆるやかに参道が曲がり、皇大神宮御正宮の前に到着。正宮は、木の塀で囲まれた古民家のようだった。前に並ぶ人々に続いて階段を上り、鳥居で一礼して中に入る。正面には外宮と同じく白い帷。二礼二拍手一礼して、ふとこう思った。
お留守かな?