研究がスタートしてすでに1年が過ぎ、悶々とした日々を過ごしていた82年の年末、思わずハタと膝を打つ記述に目がとまった。英オックスフォード大学のジョン・グッドイナフ教授が80年に発表した論文である。そこにはコバルト酸リチウムという化合物が二次電池の正極になる可能性があると書かれていて、4ボルト以上の高い起電力が得られるという。

83年の年明け早々、論文の通りの化合物を合成して正極とし、負極にポリアセチレンを組み合わせて電池を試作した。さっそく、充電してみる。すると、スムーズに充電できるではないか。では、放電はどうだろう。こちらも、スムーズに放電した。ポリアセチレンを負極にした新型二次電池が、まさに誕生した瞬間であった。

85年頃に電池の構造が固まったとはいえ、基礎技術を実用化につなげるには幾多の試練が待ち受けていた。「それからの数年間はまさに試行錯誤の連続だった」と吉野が振り返るように、うまくいくなと思うと新たな壁が立ちはだかったり、思わぬハプニングに見舞われたり、決して平坦ではない道を辿って試作品の完成にまでこぎ着けた。

世界初の量産化に成功したソニー

リチウムイオン電池を発明したのは、旭化成だが、実際の商品化に世界で初めて成功したのは、ソニーである。その開発の中心的な役割を担ったのは西美緒(にしよしお)・元マテリアル研究所長。87年初めから研究開発に取り組み、ほぼ4年後の90年暮れに製品としての完成をみた。

電池の研究は、西と新入社員2人の計3人でスタートした。正極はグッドイナフ教授のコバルト酸リチウムという避けることのできない材料が存在していたため、負極にどのようなカーボンを使うかが商品化へ大きなカギを握っていた。

カーボン材料としては、ポリアセチレン、コークスなどがすでに検討されていたが、西が着目したのはハードカーボンという素材であった。黒鉛のような分子構造が整然としたカーボンは3000℃の熱処理に1カ月近くかかるが、分子構造の粗いハードカーボンは1100℃程度で2、3日のうちに焼成することができ、しかも正極との組み合わせも当時としては最適であることがわかった。

開発に目途がつくと、西は福島県・郡山にある電池工場に派遣され、本格的な製品づくりに着手した。バッテリー事業本部第一開発部長の肩書を得て、部隊も一気に15人規模に膨らみ、それから間もなく商品化を実現する。もちろん、新型電池に要求されるエネルギー密度、サイクル寿命、安全性について一定のレベルをクリアしての合格点であった。

翌91年、京セラの携帯電話に搭載されて、ソニー製のリチウムイオン電池が世に出た。その後、8ミリビデオカメラやデルコンピュータのパソコンに採用されて市場を急速に拡大し、一時はソニー製が世界シェアの9割近くを占めたことがある。

リチウムイオン電池の市場規模(出典:富士経済)※2010年は見込み、2011年以降は予測ベース

リチウムイオン電池が吉野や西をはじめとした日本人のオリジナル技術であることは十分説明してきたところだが、「日本発」のリチウムイオン電池に関する特許出願の状況がどう推移しているか、世界の特許庁の動向から調べてみよう。

日本の特許庁が09年度にまとめた「特許出願技術動向調査報告書」によると、以下のような結果になっている。98年から07年までの10年間、日本、米国、欧州、韓国、中国の5カ所に出願されたリチウムイオン電池関連特許は、累計で2万6888件にのぼる。このうち、日本国籍を持つ出願人が66.1%と3分の2近くを占め、次いで韓国籍13.8%、米国籍8.0%の順となった。