「地べたを這うような日々は、終わりが見えなかった」

国立がんセンター名誉総長の垣添忠生氏は、奥様をがんで亡くされた後、つらい気分を麻痺させるため、酒浸りの日々だったという。「我ながら、良く生き延びたものだと思う。死ねないから生きている。そんな毎日だった。(中略)地べたを這うような日々は、終わりが見えなかった。永遠に続くのではないかと絶望的になった」と当時を振り返っている。

同じく奥様をがんで亡くされた川本三郎氏は、垣添氏との対談のあと、「理知的なお医者さんでも妻の死のダメージは大きいのだなと、ある意味、安心した」と著書で述べている。川本氏も、妻の死後、何もする気になれず、家のなかは散らかっていて、人に会う気もせず、軽いうつ状態だったかもしれないと述懐している。

重大な喪失に直面してひどく落ち込んでいたとしても、多くの場合、その状態は異常ではないし、今のままの苦しみがいつまでも続くわけではない。

喪失との向き合い方は「生き方」に通じる

重大な喪失に直面して落ち込んでいると、周囲の人が心配して色々なアドバイスをしてくれるかもしれない。過去に同じような体験をした人から、みずからの経験を踏まえた助言が与えられることもある。周囲からの気遣いはありがたい反面、「人からあれこれ言われるのはイヤ」という人も多い。

重大な喪失にはそれぞれの特性や状況があり、直面した人の受けとめ方や反応、向き合い方も大きく異なる。喪失に対してどう反応し、どう向き合うのが正しいのかを一律に定めることはできない。喪失体験は、きわめて個人的な体験である。他の人にとっては役に立つ助言でも、自分にはそうでないこともある。

喪失にどのように向き合うのかは、人生をどのように生きるのかに通じる。生き方に一つの正解がないのと同様、喪失への向き合い方にも絶対的な解があるわけではない。「今の自分」には合わないことでも、しばらく時間が経ってから、受け入れられるようになることもある。

同じような体験をした人の話を聞いたり、手記を読んだりすることで、みずからの喪失体験を客観視し、これからの歩みに向けてヒントが得られることもたしかにある。そうはいっても人それぞれ体験が異なるのだから、自分の考えとは違うと感じる部分も必ずある。他者の考えや助言にそのまま従う必要はなく、基本的には自分が良いと思える向き合い方でかまわない。本記事も当事者の声や文献資料などに基づき、喪失体験について論じているが、異なる考え方や向き合い方を否定するものでは決してない。