家族の死を悲しんでいないように見える人は、薄情なのだろうか。悲嘆学が専門の関西学院大学の坂口幸弘教授は「泣くことは、有益な対処方略ではあるが、泣かなければいけないわけではない。喪失との向き合い方は、人それぞれ違う」という――。

※本稿は、坂口幸弘『喪失学 「ロス後」をどう生きるか?』(光文社新書)の一部を再編集したものです。

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「重大な喪失」は人生で何度も経験するものではない

「これからどうやって生きていけばよいのかわからない。何もする気がしない」
「前向きにならないといけないとは思っているけど、それができない」
「誘ってくれる人はいるが、外に出かける気分ではない」

大切なものを失ったときに、このように深く落ち込み、何事にも無気力になることは自然である。身を切るような悲しみや、湧きあがる怒り、言葉にできない苦しみもあるだろう。自分の人生が終わったように感じ、先のみえない絶望感に、生きていても仕方がないと思うことさえある。自分でも驚くほど落ち込み、制御できないくらいの感情を抱くのは決しておかしなことではない。失ったものが、自分が意識していたよりもずっと大事なものであった証である。

重大な喪失は、人生のなかで、そう何度も経験するものではない。たとえば、配偶者や子どもの死に直面するのは、ほとんどの人にとって初めての体験である。それゆえ、「このつらさがいつまでも続くのではないか」「自分は人とは違うのではないか」などと不安になることもありうる。

「夜がつらい」人も「朝がつらい」人もいる

遺族の集まりにおいて、一日のなかで、いつ頃に気持ちがつらくなるのかという話題になったことがある。配偶者を亡くして一人暮らしとなったある女性は、「夜がつらい」と話された。日中、明るいうちはいいが、暗くなるとたまらなく寂しくなるという。参加していた他の遺族の方も深くうなずいていた。一方で、「朝がつらい」という方もいた。目が覚めて、パートナーがいないという現実をあらためて実感することが耐えがたいという。これにも同調する声があがった。

人によって受けとめ方は異なるであろうが、同じような思いや体験をしている人は自分以外にも必ずいる。一人ひとりの体験は決して同じではないが、たいていの場合、自分の体験が異常であると心配する必要はない。